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安佐北区安佐町久地(くち)に建立されている「久地村忠魂碑」です。
※久地村忠魂碑は、戦後原爆で亡くなった方々も合祀して、(新しい)台座を建立、お名前を刻んでいます。
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広島市の資料によると
『この忠魂碑は、当初1929(昭和4)年に建立されました。
しかし、敗戦後の占領政策を受けて1946(昭和21)年に政府が出した方針(学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去)を踏まえ、久地村地区民が解体して地中に埋めました。
1968(昭和43)年碑再建の機運が高まり、忠魂碑が掘り出され、2年後(昭和45年)に原爆死没者なども慰霊対象に含められました。台座に犠牲者のお名前が刻まれています。』とあります。 |
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別資料によると
『支那事変(日中戦争)大東亜戦争(太平洋戦争)の戦没者は143名、このうち原爆犠牲者は31名』とあります。 |
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(正面) |
忠魂碑
陸軍大将宇垣一成謹書 |
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(側面) |
久地村民建之 |
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(裏面) |
戰病死者 (裏一面にお名前が刻まれています) |
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(側面) |
御大典記念 昭和四年四月 |
昭和4年=1929年 |
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宇垣一成(うがきかずしげ:1868-1956)
軍人、政治家。岡山県出身。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業後、ドイツに留学。
帰国後、陸大教官、軍事課長、参謀本部第1部長、陸大校長、第10師団長、教育総監部本部長、陸軍次官を歴任、1924(大正13)年清浦奎吾内閣の陸相。1953(昭和28)年参議院選挙(全国区)でトップ当選。 |
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1889 |
明治22年4月1日 |
市町村制施行時、沼田郡久地村。 |
1898 |
明治31年10月1日 |
高宮郡+沼田郡=安佐郡となり安佐郡久地村となりました。 |
1955 |
昭和30年3月31日 |
飯室村+小河内村+久地村+鈴張村+日浦村=安佐町 |
1971 |
昭和46年5月20日 |
安佐郡安佐町は、広島市へ編入消滅しました。 |
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今(2016)年8月になってから原爆関連の慰霊碑・口田地区原爆死没者供養塔、大林地区戦没者慰霊碑を巡ったのに続いて、この久地村忠魂碑、(旧)小河内村戦没者慰霊碑を息子運転の車で訪ね頭を垂れ撮影してこの頁を編集しました。
いずれも安佐北区に点在する原爆関連の慰霊碑で、公共交通機関(便も少ないバス)+徒歩で訪ねられないことは無いようですが、訪ねるとなるとなかなか難しいと云わざるをえません。また、カスミ目が進んできたわたしはなかなか目的の碑を探すことができにくくなっていますが、この久地村忠魂碑も可部から国道191号線を走り、県道38号に入り南下していて行くうちに目に入ったのでしょう県道傍に建立というもののすぐに見つけてくれました。 |
16.09.07.裕・記編集 |