日浦地区戦没者慰霊碑

  安佐北区安佐町後山(うしろやま)に建立されている「日浦地区戦没者慰霊碑」です。
1919(大正8)年建立された日浦村戦役記念碑の根際に戦後建立された「日浦地区戦没者慰霊碑」には原爆で亡くなった動員学徒の方々のお名前も刻まれています。
広島市の資料によると
『旧日浦村の日中戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者〔104人。うち確認されている原爆犠牲者は(動員)学徒の15人〕を慰霊するため、建立されました。碑背面に犠牲者の名前が刻まれています。後山地区の住民により、毎週一回、慰霊のための献花が行われています。』とあります。
正面: 慰霊碑
   広島市長 山田節男 謹書
在任:1967-1975
裏面: 支那事変大東亜戦爭軍人軍属死没者並動員学徒原爆犠牲者
軍人之部72名のお名前。軍属之部16名のお名前。学徒之部15名のお名前。
                       泉水武司謹書
昭和四十六年十二月 日浦地区民建之
昭和46年=1971年
   戦役紀念碑と戦没者慰霊碑
日浦地区における日清戦争・日露戦争・支那事変(日中戦争)・大東亜戦争(太平洋戦争)の戦没者並びに動員学徒の原爆戦没者の霊を弔い、将来にわたってこのことを忘れないために昭和46(1971)年に設置されたもので、現在でも後山地区の住民によって途切れることなく献花が行われ、大事に供養されています。
(*設置者の名称はありませんが日浦地区自治会でしょうか)
日浦村略沿革
1889 明治22年4月1日 市町村制施行時、沼田郡日浦村(⇒毛木村+後山村+宮野村+筒瀬村)
1898 明治31年10月1日 高宮郡+沼田郡=安佐郡となり安佐郡日浦村となりました。
1955 昭和30年3月31日 飯室村+小河内村+久地村+鈴張村+日浦村=安佐町
1971 昭和46年5月20日 安佐郡安佐町は、広島市へ編入消滅しました。
広島市の資料の内でまだ訪ねていなかった安佐北区安佐町に建立の原爆関連の慰霊碑で、最後に残っていたのがこの「日浦地区戦没者慰霊碑」でした。
被爆71年(20016年)9月になりましたが、息子運転の車で訪ねることができ、頭を垂れた後撮影しました。
 
少し遠回りになりますが、国道191号から県道268号を南下して(太田川の橋を撮影して)再び県道268号を南下して訪ねることにしたのです。
最初は場所がわからず安佐動物公園まで南下しすぎて引き返すとき、団地の方の道に間違って入り戻って県道268号を北上しましたが過ぎてしまい、再び南下しているとき、息子が見つけてくれました。
鯉で有名な“小西養鯉場”(安佐町後山1367-4の養魚池やビニールハウス(中で養魚しているのでしょう)が並んでいる北側の道路を挟んだ処に建立されていました。大変苦労しましたが、訪ねることができました。
帰りは、素直に動物公園前を通り、アストラムライン下の道に出て帰宅しました。
16.09.20.裕・記編集

16.09.03.撮影
広島市安佐北区安佐町後山1367附近

16.09.03.撮影
(慰霊碑に献花が行われていました)

16.09.03.撮影

16.09.03.撮影

16.09.03.撮影

16.09.03.撮影

16.09.03.撮影
日浦村戰役紀念碑  と  日浦地区戦没者慰霊碑



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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