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中区加古町の本川堤防上に建立されている「広島県職員原爆犠牲者慰霊碑」です。 |
「広島県職員原爆犠牲者慰霊」碑が建立されているこの辺りは、当時広島県庁や広島県病院がありました。
原爆により木造の広島県庁舎は瞬時に倒壊し、全焼しました。職員の多くは即死か倒壊物の下敷きとなったまま焼死したそうです。
広島県職員原爆犠牲者慰霊碑の前方横に1,132名(当初から2名が消され、15名の方々が追記されています)*のお名前が書かれた「広島県職員原爆犠牲者名録碑」が建立されています。 |
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「旧広島県庁舎説明碑」の碑文内には 1,141名とありますが、1960年建立の慰霊碑には八百有余とあります。
「広島県職員原爆犠牲者名録碑」には(わたしの数え間違いはなければ)現在1,132名のお名前が読めます。
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(被爆後の)広島県庁の移り変わり |
1945(昭和20)年8月6日原爆で倒壊・全焼した県庁舎(爆心地から約900m)は、
同日夕刻に(緊急避難先に指定されていた)多聞院に県防空本部が置かれました。
8月7日には、現在の中区銀山町の東警察署に(8月19日までの約二週間)移されました。
その後、安芸郡府中町(現在のマツダ株式会社内)に移されました。
1946(昭和21)年6月〜1956(昭和31)年、霞町の旧・広島陸軍兵器支廠へ移されました。
1956(昭和31)年4月、現在地の(中区)基町に移転しました。 |
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資料をみて2001年に訪ね撮影しこの頁を編集しましたが、PCを壊したときに画像を失っていて頁が更新できなかったので、2005年撮影し、上記碑文も追記しました。
その時、碑の裏側の処に「地磁気測定」石柱にも気が付き別頁で編集しました。 |
2015年になって、久しぶりに撮影しましたので、この頁を再編集しました。 |
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「広島県職員原爆犠牲者慰霊碑」と「広島県職員原爆犠牲者名録碑」と「旧広島県庁舎」説明碑の画像を整理し、追加掲載しました。
「広島県職員原爆犠牲者名録碑」に記述された方々を数えてみました。(わたしの数え間違いはなければ)当初記述から2名が消され、15名の方々が追記され現在1,132名のお名前が読めます。 |
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15.06.22.再編集 01.09.10裕・編集 |