向原町原爆死没者慰霊碑

  安芸高田市向原町坂の丸山公園に建立されている「向原町原爆死没者慰霊碑」です。
※もともとは、1981(昭和56)年に町内の火葬場に向原町被爆者友の会が建立したそうです。
  (広島原爆戦災誌から火葬場とは、向原町坂の大宋山火葬場でしょう。)
碑正面: 慰霊
碑裏面: 昭和五十六年十月建之        
説明碑碑文: 被爆者慰霊誌
昭和二十(1945)年八月六日年広島市に原子爆弾が投下され本町もいち早くこれらの戦災者の救護活動を展開したが真夏日と医薬品皆無の状態の下悶死された犠牲者は百数十柱に及んだ
本年は原爆投下五十周年に当たりこれら無縁仏の心からの鎮魂と二度と戦争のない世界平和を誓い静閑なこの地に慰霊碑を移設するものである
    平成七(1995)年八月一日   向原町
1929(昭和4)年4月1日高田郡向原村発足(=坂村+戸島村+長田村)。
1937(昭和12)年4月1日町制施行して高田郡向原町になりました。
1954(昭和29)年3月31日有保村の一部編入(前・有留村一部分+前・保垣村全部分)。
2004(平成16)年3月1日高田郡の全6町が合併)して安芸高田市が発足。(同時に高田郡も消滅)。
広島原爆戦災誌の“高田郡向原町”の項を紐解けば次のようにあります。
『一、8月6日の状況
・・・・向原町には、動員令による建物疎開作業隊の出動もなく、広島市からの学童疎開も受け入れていなかった。
二、避難者の状況
当日(8月6日)、午後2時30分ごろ、広島市矢賀駅から出た汽車によって、無残に引きさかれた着物に、まっ黒い顔をした避難者が向原駅に送られて来た。・・・・
以来、毎日数十人の被爆患者が収容された。
これらの避難者は、向原町坂の向原国民学校を収容所として救護し、収容所の閉鎖された9月30日までに一、二〇〇人に達した。このうち、死体の埋火葬概数は約一二〇体で、向原町坂の大宋山火葬場において処理された。なお、広島市からの避難者のうち、そのまま向原町に定着居住した世帯は概数一〇世帯である。』
2020年7月中國新聞報道で
『・・・向原町原爆被害者友の会会長の玉川祐光さん(87)が「いつもなら追悼式に向け、みんなできれいにしとるんですが」と寂しげにつぶやいた。 友の会は原爆投下から75年となる8月6日に解散する。
解散を決めた2017年、会員の反応は「やむを得ない」との反応が大半だった。記録によると会員数は1986年時点で540人を数えたが、年を追うごとに減り、現在は135人にまで減少。実際に運営に関わるのは数人にとどまっていたという。 ・・・(中略)・・気がかりなのは慰霊碑の行く末だ。「百数十柱」の犠牲者の記憶を宿す碑を誰が管理し、語り伝えてくれるのか。託す相手だけは、会長の最後の責務として見つけるつもりでいる。』
との内容でした。
わたしが参考にしている資料にはこの慰霊碑の紹介は無かったのですが、昨年中國新聞報道でこの碑のことを知り訪ねてみなくてはと思っていましたが、なかなか行けなかったのです。
2020年になりましたが息子が休みだという日に車で連れて行ってもらったのです。ストリートビューで護国神社のすぐ先の遊歩道沿いに建立されていることを息子が確かめていましたので、迷うことなく、碑の前で息子と一緒に頭を垂れた後撮影し、この頁を編集しました。
友の会会長が心配されているこの慰霊碑を見守り管理していく後継者は、やはり被災者が運び込まれた(当時・向原国民学校)現・向原小学校の児童・PTA関係者か、場所的にすぐ近くの向原高校生徒・その関係者なのではと思ったりしましたが。
20.09.17.裕・記編集

20.09.04.撮影
安芸高田市向原町坂  丸山公園

20.09.04.撮影
 (遊歩道根際の法面を整備して)慰霊碑が建立されています

20.09.04.撮影
 (台座石正面に)碑文が刻まれています

20.09.04.撮影
 (碑裏面をみました)

20.09.04.撮影



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