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中区千田町の広島赤十字・原爆病院メモリアルパークに設置されている「被爆した広島赤十字病院の説明碑」です。 |
昭和20(1945)年8月6日(米軍)の原子爆弾投下により、本館・中央病棟(1号館)・北病棟(2号館)の鉄筋コンクリート造の外郭だけは残りましたが、室内は窓ガラスなどの破片が吹き荒れ、無残に破壊されました。また、看護学校宿舎などの木造施設は全壊または全焼し、入院患者だけでなく病院関係者や看護婦学生にも多くの死傷者が出ました。
このような被害にもかかわらず、生き残った医師や薬剤師、看護婦などの職員と看護婦学生は不眠不休で、殺到する被爆者の救護にあたりました。
一面焼け野原と化した市内にあって、診療を続ける病院に掲げられた赤十字旗はひときわ輝かしく見え、さながら“廃拠の中のオアシス”のようだったとの言葉が残されています。
被爆した本館は平成5(1993)年まで診療に使用されていましたが、老朽化により解体されました。本館の「爆風でゆがんだ鉄製の窓枠」と中央病棟の「窓ガラスの破片が突き刺さった跡が残る壁」は、多くの市民の要望を背景として広島市被爆建物等保存・継承事業の適用第1号の補助により保存されました。
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日本赤十字社広島支部病院として昭和14(1939)年2月延床面積:≒4,900u。鉄筋コンクリート3階建、地下1階として竣工しました。設計:佐藤功一建築設計事務所。(解体開始:1993年3月)
昭和20(1945)年8月6日原爆により窓ガラスは吹き飛び窓枠はねじ曲がり内部も大破し、隔離病棟・看護婦生徒宿舎などの木造建築物は全半焼したあと周辺からの類焼で全焼したが、本館・1号館・2号館は懸命な防火活動で類焼を食い止めたそうです。
収容中の患者250名中5名と病院関係者69名が犠牲になったそうで、被爆直後から多くの被爆者が救護を求め集まり、救護活動22日間に延べ31,000人以上(陸軍病院でもあったこの病院には他病院以上の医薬品が備蓄されていましたがたちまち使い果たした)に上ったそうです。 |
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被爆当時:広島(陸軍病院)赤十字病院 爆心地より≒1500m |
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2013年定期検診で広島赤十字・原爆病院を訪れている時、病院の増築工事で、病院敷地に建立されていた広島赤十字病院原爆殉職職員慰霊碑などが移設される事を知りました。
2014年整備されたこの“広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク“にこの「被爆した広島赤十字病院:説明碑」が設置されていました。いままで被爆当時の広島赤十字病院の平面図は資料でみた事がありましたが、各建物の配置について(わたしは)は知らなかったので、この頁を編集しました。 |
「被爆した広島赤十字病院:説明碑」の写真、原爆被災説明板の写真などでこの頁を編集しました。 |
14.06.11.裕・記編集 |
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14.05.23.撮影 |
広島市中区千田町2-5-64 日本赤十字社広島県支部前庭 |
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14.02.22.撮影 |
「被爆した広島赤十字病院:説明碑」の写真を使用しています |
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09.09.14.撮影 |
1945(昭和20)年9月川本俊雄氏撮影の原爆被災説明板写真を使用しています |
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14.02.22.撮影 |
(被爆当時の)広島赤十字病院配置図 |
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09.09.14.撮影 |
平成4(1992)年4月に解体される前の本館、“モニュメント”にあった画像を使用しています |
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05.10.10.撮影 |
残された「被爆した窓枠」その前に「硝子が刺さった壁」、「原爆被災説明板」、「モニュメント」の屋根がみえます |
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