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中区千田町の日本赤十字社広島県支部前庭に移設建立されている「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会・第九号碑」です。
※もともとは、広島赤十字原爆病院前庭に建立されていましたが、増改築で上記に移設されました。 |
ここで取り上げた「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」第九号碑は、もともと広島赤十字病院の前庭に2005(平成17)年に建立されました。
しかし、病院の増築に伴い(道路を挟んだ向かい側の)日本赤十字社広島県支部前庭に整備された「広島赤十字・原爆病院メモリアルパ)ーク」に平成25(2013)年7月移されました。
2014年新たに見直しているとこの新第九号碑の一番上のプレートに「原爆の絵 動員学徒の碑」と副題が付いている事を見逃していました。この碑の周辺の状況も変わりましたので新しいこの頁を編集しました。 |
日赤病院の玄関前の丸い花壇の上には材木のように重ねて置かれた中学一年、二年生の遺体がありました。名札には広島二中と書いてありました。 八月七日
放射能に斃れし少年無傷なりゲートルを巻くあどけなさ 河野きよみ。 |
日赤病院の玄関前の丸い花壇の上に、材木のように重ねて置かれた中学1年、2年生の遺体がありました。
名札には広島二中と書いてありました。
放射状に重ねられた中学生の遺体にはやけどはなく無傷のままに息絶えていました。この中の何人の遺骨が母の懐に抱かれたのでしょう。
1945(昭和20)年8月7日 河野きよみ |
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当時(広島)市内では多くの児童生徒が建物疎開などに動員され、約5,000人が被爆死しました。
広島二中生は爆心地近くの1年生を中心に298人が亡くなっています。その半数近くの遺骨は不明なままです。 |
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2013年定期検診で広島赤十字・原爆病院を訪れている時、病院の増築工事で、病院敷地に建立されていた広島赤十字病院原爆殉職職員慰霊碑やここで取り上げた「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」第九号碑などが移設される事を知りました。
2014年「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」として病院敷地から(道路を挟んだ向側の)日本赤十字社広島県支部の敷地に整備されていますので、定期検診の時に撮影し、この頁を編集しました。 |
14.06.16.裕・記編集 |