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| 中区中島町の平和大通緑地(平和大橋西詰南側)に建立されている「広島市立高女原爆慰霊碑」です。 |
| 材木町〜木挽町の建物疎開作業に来ていた広島市立高等女学校の1、2年生544人、職員8人全員が亡くなったそうです。また、他の動員先を含め、679人※1が原爆で亡くなり、市内の学校では最も多くの犠牲者を出したと(わたしは)聞いていました。 |
| (碑裏の短歌) |
| 友垣にまもられながらやすらかに ねむれみたまよこのくさ山に |
| 宮川雅臣(マサオミ)氏は当時(昭和23年)の校長先生 |
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| -広島市立高女原爆慰霊碑について- |
碑建立年月日:1948(昭和23)年8月6日
碑建立者:広島市女原爆遺族会
碑制作者:河内山賢祐(彫刻家)
碑形状:高さ1.77mの万成石製。
正面には3人の少女のレリーフ |
| 1948(昭和23)年8月6日に母校跡に建立 |
| 1957(昭和32)年6月20日に現在地に移設 |
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| -広島市高等女学校・略沿革- |
1921(大正10)年広島市高等女学校創立
1943(昭和18)年広島市立第一高等女学校
1948(昭和23)年広島市二葉高等学校となる
1949(昭和24)年広島県広島舟入高等学校となる
1980(昭和55)年広島市立舟入高等学校となる |
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1901(明治34)年広島県立広島高等女学校が設立され、1941(昭和16)年広島県立広島第一高等女学校と改称(県立第二高女が設立されています。)県立高女の沿革を参考にしました。 |
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| ※1 |
『建物疎開作業中の1、2年生(当時12、13歳)541人、教職員7人の全員が亡くなり、他の動員先を含め676人が被爆死しました。』と説明板に記述がありました。 09.07.09追記 |
| ☆ |
この慰霊碑の名称をわたしは、石碑に刻まれている「広島市立高女原爆慰霊碑」を採用していますが、説明板には「広島市高等女学校原爆慰霊碑」という本来の校名を採用しています。 |
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| 河内山賢祐(こうちやま けんすけ: 1900-1980) |
彫刻家。山口県生まれ。東京美術学校卒業
1929(昭和4)年帝展入選。1960(昭和35)年伊藤博文像:旧大和町(光市)など。
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2001年10月撮影
この広島市立高女原爆慰霊碑に頭を垂れ(わたしははじめて)撮影しました。 |
2009年撮影
2001年撮影以来何度も訪れていますが、碑の東側に説明板が設置されたのがいつであったか記憶にはないのです。
2009年6月も立ち寄って居るのに説明板を読んだことがなかったと、被爆64年目を一ヶ月後に迎えようとしてしていた今月(7月7日)立ち寄り説明板を読んだのです。説明文にある犠牲になった方々の数が気にかかり撮影しました。
帰宅後わたしが作成している、この頁をみてみました。犠牲者の数が違っていましたので追記すると共に現在の慰霊碑廻りの画像を追加しました。 |
| 2011年になり舟入高校に立ち寄った時、市女の門柱が記念として残されていました。説明板を読んでいくと1943(昭和18)年に広島市高等女学校から広島市立第一高等女学校と校名変更があったことを知りました。 |
2015年撮影
被爆70年、碑の裏側からや周りの状況がわかるようにと撮影した画像を加え、この頁を再編集しました。 |
2024年撮影
被爆80年が近づき久しぶりに撮影しました。設置の説明板を読んで掲載しました。 |
| 26.03.26.更新 15.02.23.再編集 01.10.10裕・編集 |
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| 2001年撮影 |

01.10.04撮影 |
| 広島市中区中島町1 平和大通緑地(平和大橋西詰南側) |
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01.10.04撮影 |
| 慰霊碑の文字は無く「E=MC2」と刻んだ慰霊碑 と 当初は設置されず※2のちに設置された「原爆慰霊碑」の石碑 |
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01.10.04撮影 |

08.06.07.撮影 |
| 中央の少女が持つ箱には、原爆の原理になったアインシュタイン(1879-1955)の相対性理論からとられた原子力エネルギーの公式「E=MC2」が刻まれています。 〔Eはエネルギー。Mは物質の質量。Cは光の速さ(≒30万Km毎秒)〕 |
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| ※2 |
慰霊碑には「原爆」という文字が使用できなかったとのことです。
当時(日本は)連合軍の占領下だったからで、これは米国が占領政策として原爆報道を厳しく規制(プレスコード)したため、慰霊碑に原爆の文字を書き込むことが出来なかったからです。占領政策が緩みはじめた1951(昭和26)年ごろから慰霊碑の中にも「原爆」という文字が出てくるようになったそうです。 |
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1945(昭和20)年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌日(8月15日)には「終戦の詔書が」ラジオで発表され、日本は無条件降伏しました。
それから、1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ対日講和条約の発効で、戦争状態が終結される事になるまで連合軍の占領下に置かれました。(ただし条約には日本の主権・平等を承認していますが、外国軍隊の日本駐留継続を認めた事で今日まで米国軍が駐留する根拠にもなっています) |
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| 2009年撮影 |

09.07.07撮影 |
| 東側(画像左側)に説明板が設置されています |
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09.07.07撮影 |
| 會族遺爆原女市島廣 |
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| 2015年撮影 |

15.01.22.撮影 |
| (“カキ船かなわ”の屋根が写っています) 碑の正面からみました |
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15.01.22.撮影 |
| 碑裏側をみました |
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15.01.22.撮影 |
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15.01.22.撮影 |
| (画像右側)に“カキ船かなわ”の屋根が写っています |
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| 2024年撮影 |
| 設置の「広島市高等女学校原爆慰霊碑」説明板の説明文 |
1945(昭和20)年8月6日、現在地(旧材木町付近)で建物疎開中の1,2年(当時12,13歳)541人、教職員7人の全員が亡くなり、他の動員先を含め676人が被爆死しました。
市内の学校では最も多くの犠牲者を出しています。
この碑は、1848(昭和23)年、広島市女原爆遺族会が母校校庭に建立し、十三回忌に当たる1957(昭和32)年に現在地に移されました。
碑中央の少女が持つ箱には、原爆の原理になった相対性理論の原子力エネルギー公式「E=MC2」が刻まれています。
連合軍の占領下、「原爆」という文字が使用できなかった当時の事情を著しています。
広島市高等女学校は1948(昭和23)年、学制改革で27年の校史を閉じ、現在は広島市立舟入高等学校となっています。
広島市高等女学校・広島市立舟入高等学校 同窓会 |
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24.11.07.撮影 |
| (画像右側)に“カキ船かなわ”の屋根が写っています |
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24.11.07.撮影 |
| (画像右側)に“カキ船かなわ”の屋根が写っています |
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24.11.07.撮影 |
| (画像右側)に“カキ船かなわ”の屋根が写っています |
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26.11.07,撮影 |

26.11.07,撮影 |
| 設置の説明板 |
日本語と英語 |
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