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中区東白島の現在・日本郵政グループ広島ビル前庭に建立されている「郵政関係(職員)慰霊碑」です。 |
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この慰霊碑は関係者の浄財により建立された。 設計:中国郵政局建築部 |
碑表面: |
慰靈 |
建立者: |
原爆慰霊碑建設委員会
(遺族・退職者・全逓労組・全逓被爆者の会、郵政局、監察局) |
建立日: |
昭和51(1976)年8月6日 |
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昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、世界最初の原子爆弾が広島の地に投下され、一瞬にして街は焦土と化し、20数万の尊い生命が失われました。焦げ付く太陽の下、炎に追われながら水をもとめてさまよい歩く被災者は数しれず、また焼けただれた遺体が至る所ににころがり折り重なって、まさに焦熱地獄の惨状を呈していたといわれています。
郵政部内においても、当時の広島郵便局の288人をはじめ、西部逓信総局・広島逓信局・広島逓信病院・広島地方貯金局・広島市内各郵便局の職員等、合わせて500有余人(※518柱とも聞きます)が尊い犠牲となられたことは、誠に痛恨の極みであります。
あれから30有余年が過ぎた今日も、原爆の後遺症に苦しんでおられる人が多いことを思うとき、再びこのような悲劇が繰り返されてはなりません。皆様の霊を慰め永遠の平和を祈念するため、昨年被爆30周年を機に、遺族・退職者・全逓労組・全逓被爆者の会、並びに郵政局・監察局、それぞれの代表者により「原爆慰霊碑建設委員会」を設け、有志の浄財によってこの碑を建立しました。
どうか安らかにお眠りください。 |
慰霊のことば(碑裏面に設置) |
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昭和51(1976)年8月6日 |
原爆慰霊碑建設委員会 |
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1885 |
明治18年12月22日 |
(内閣創設に際し)逓信省が発足。 |
1943 |
昭和18年11月1日 |
逓信省と鉄道省を統合し、運輸通信省を設置。 |
1945 |
昭和20年5月19日 |
運輸通信省から通信院を分離し、内閣所属部局として逓信院を設置。 |
1946 |
昭和21年7月1日 |
逓信院を廃止して逓信省を再設置。 |
1949 |
昭和24年6月1日 |
逓信省廃止。二省分離(郵電分離)により、郵政省と電気通信省を新設。 |
2001 |
平成13年1月6日 |
(中央省庁再編で)郵政省が総務省郵政企画管理局と郵政事業庁に再編。 |
2003 |
平成15年4月1日 |
日本郵政公社となり、同時に郵政事業庁は廃止。 |
2007 |
平成19年10月1日 |
郵政三事業を含む全ての業務が日本郵政グループとして
日本郵政株式会社及びその下に発足する4つの事業会社〔郵便局(株)、郵便事業(株)、(株)ゆうちょ銀行、(株)かんぽ生命保険〕へ移管分割。 |
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牛田に住んでいましたので、この旧中国郵政局の前をバスで自転車で通っていましたが、資料をみるまで、ここに建立されている原爆関連の慰霊碑を知らなかったのです。
2001年に訪ね頭を垂れた後撮影しこの頁を編集しました。
2004年に尋ねた時に、詩碑で栗原貞子さんの「生ましめんかな」の詩を知りました。 |
2001年に撮影して以来郵政の民営化で名称がいろいろと変りましたので、逓信省の略沿革を調べました。 |
2015年久しぶりに撮影しましたので、画像を更新し、この頁を再編集しました。
コロナ禍の2021年訪ね頭を垂れ撮影していましたので、この頁を更新しました。 |
22.07.04.更新 15.04.22.再編集 01.10.20裕・編集 |
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01.10.15撮影 |
広島市中区東白島19-8 元・中国郵政局(2003年4月1日より郵政公社中国支社:現在・日本郵政グループ広島) |
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04.04.22撮影 |
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06.02.28撮影 |
(復元された)旧広島逓信局の階段、 慰靈碑、 生ましめんかな・詩碑、被爆アオギリ二世 |
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15.04.09.撮影 |
慰霊碑は、水を求めた人々への思いを表す池に囲まれています |
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15.04.09.撮影 |
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15.04.09.撮影 |
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15.04.09.撮影 |
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21.03.04.撮影 |
広島市中区東白島19-8 日本郵政グループ広島ビル前庭 |
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21.03.04.撮影 |
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21.03.04.撮影 |
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21.03.04.撮影 |
向側:旧広島逓信局の(被爆した)階段 手前:慰霊碑 |
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21.03.04.撮影 |
それぞれ鳩の表情・姿に違いがありました |
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21.03.04.撮影 |
慰霊碑裏面:慰霊のことば(上記) |
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21.03.04.撮影 |
慰霊碑 「生ましめんかな」詩碑 被爆アオギリ二世 |
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