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中区富士見町の広島県歯科医師会館前に建立されている
「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会の8号碑」です。
※2017年に広島県歯科医師会館が移転したので、8号碑は東隣のエソール広島に移設されました。
※2020年4月3日(少し離れた)中区宝町2-1のフジグラン広島に再移設されました。(別頁で編集) |
2005(平成17)年3月19日に8号碑が、広島市中区富士見町の広島県歯科医師会館入口に建立されています。
碑には『 世界がヒロシマを忘れたとき、再びあの日は繰り返される。 』と書かれています。
また、『あの日をみつめてください きのうを忘れては、あしたは見えない 昭和20年8月6日の朝、この場所で何が起こったか。写真の一枚もなく、ああ、どんどん忘れられていく。 どうか、目をそらさないでみてください。』と記述していますので、わたしも目をそらさないようにと拝見しました。 |
この歯科医師会館には広島市歯科医師職員慰霊碑が建立されていますので4年ほど前撮影してから、会館前を何度も通りますがか,今(2005)年に「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」第八号碑が建立されたと知っていたので撮影で訪ねてみようと思っていたのです。 |
2015年久しぶりに訪ね、この絵碑も拝見しました。 |
この地の広島県歯科医師会館が2017年はじめに二葉の里に移転しましたので、ここの8号碑は撤去されています。
8号碑は東隣のエソール広島に移設されています。(下段にリンク先を加えています)17.12.23.追記 |
2020年3月29日の中國新聞報道で、次のことなどを知りました。
エソール広島に移設されていましたが、同建物を含む一帯が再開発で、跡地などが米・ヒルトンホテルになることから再設置の意向を確認したが(原爆を投下した国のホテルの後ろめたさからでしょう)明確な回答がなかったことから近くのフジ(本社・松山市)に打診したそうです。
フジは「地域の歴史をつないでいきたい」と正面入り口の処への設置の承諾をしたそうです。20.4.10追記 |
15.04.16.更新 05.12.22裕・記編集 |
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関連碑:広島市歯科医師職員慰霊碑 |
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05.11.03.撮影 |
広島市中区富士見町11-9 広島県歯科医師会館 |
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ATOMIC BOMB MEMORIAL No.8 被爆60年 MARCH 19,2005
ちばコープでは1982(昭和57)年からの「ヒロシマ平和の旅」で、ここ富士見町で被爆された岩佐幹三(1929-2020)さんの被爆体験を聞くことを通して、核兵器や悲惨な事実を次世代に伝え、風化させない取り組みをしています。
資金協力:生活協同組合 ちばコープ 制作:広島県歯科医師会、被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会 |
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「水をくれー」「水をくれー」と私に言った。学校から帰る際、先生から「水を飲ませたら死ぬ」と注意があった。私はその場を逃げるように足早に行った。手を合わす姿が今も忘れられない。
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死体の上に焼けたトタンがかぶせてあった。付近には収容されない死体が多く放置されていた。なんたる光景であろうか。1日前までは戦時下であってもみんな家族があり、元気で生きていたのに・・・・。
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2枚の絵は「被爆証言の会」代表の原広司さんが描かれたものです。
「13歳だった被爆翌日、千田町の工業学校からここ富士見町を通りました。絵には描ききれませんが沢山の亡くなった方が横たわっていました。ことばで表現できません。・・・・証言活動を続けていますが、未来に生きる子供たちに原爆の悲惨さと平和の尊さ、核兵器反対をさらに訴えていきます。」と除幕式の時に述べられたそうです。 |
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「絵には広島が多くの被爆者の犠牲の上に築かれているとの思いを込めました。カンナの花は被爆地に初めて咲いた花として広島の生命力を託しました。」ということだそうです。
米田勁草さんが描かれた絵。 |
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15.03.21.撮影 |
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(広島県歯科医師会館が2017年はじめに移転しましたので、ここの8号碑は撤去されています) |
17.12.23.撮影 |
移転した跡(広島市歯科医師・原爆之碑は二葉の里に移築されています) |
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