広島市医師会原爆殉職碑

  中区小町の平和大通緑地に建立されている「広島市医師会原爆殉職碑」です。
   原爆殉職碑
身を挺し市民救護の使命
に殉した医師看護婦の霊
を祀る
昭和三十五(1960)年八月
被爆十五周年をむかえて 
広島市医師会これを建つ

01.11.21.撮影
1960年建立の説明文は「看護婦」とあります〔女性を「看護婦、男性を「看護士」と呼んでいました〕が
2001年「保健師助産師看護師法」に改定され、2002年3月からは「看護師」という名称統一で、
2005年新設の説明碑(下欄掲載)には「看護師」となっています。
広島市医師会原爆殉職碑
広島市医師会原爆殉職碑は、原爆によって殉職した医師・看護師などの医療従事者や、みずから被災しながらも医療救護活動に従事し、後に放射線によって亡くなられた方々の慰霊のために、広島市医師会員を含む多くの方々のご協力により昭和35(1960)年に建立されたものです。
昭和20(1945)年8月6日午前8時15分広島市に原子爆弾が投下されたとき、「防空業務従事令書」により疎開を禁止され、市内での医療救護活動を義務づけられていた医療従事者は2,168名が被爆したとされています。
この殉職碑は、「手」をかたどった抽象的彫像で、高さ12m、幅4.5m、正面を原爆ドームに向けて建てられています。
慈愛と救済を現わしたものであり、指間の二羽の鳩は平和の使徒を、また両手の指の組み合わせは(原爆)犠牲者の冥福と世界平和への力強い願いを込めています。

  平成17(2005)年8月6日  被爆60周年にあたり  広島市医師会
 祈りの手  Praying Hands 
2001年資料をみて、訪ね撮影してこの頁を編集しました。
2005年2月鳩が碑の中に鳩の彫刻が配されている事を知り撮影しました。
高木茂登著「ひろしま水と緑と彫刻」をみていると、この碑がコンクリート製のモニュメント(記念碑)として掲載されていました。
その中で作者(設計者)として河内義就(こうちよしなり)・上野勇(うえのいさむ)とありました。
また、戦争中、医師は疎開を禁じられ、市民の看護に従事したことも知りました。
2005年10月この碑の前を通った時に、新しく碑銘と碑文を書いた説明板が設置されていました。(いままで解釈していた碑銘“医師看護婦原爆殉職碑”を「広島市医師会原爆殉職碑」と訂正しました。
2015年久しぶりに撮影しました。この頁の再編集にあたり2005年設置された説明碑の碑文を掲載しました。
説明碑にはこの「広島市医師会原爆殉職碑」と“祈りの手”のプレート(2005年当時はなかった)が取り付けてあります。
野外彫刻作品としてみたときは「祈りの手 Praying Hands」となるのでしょうね、そのようなことから各角度で撮影してみました。
15.04.03.再編集   01.11.30裕・編集

01.11.21.撮影

01.11.21.撮影
広島市中区小町2 平和大通緑地

05.02.02.撮影
二羽のハト

05.10.10.撮影

05.10.10.撮影
(裏面)被爆60周年にあたり広島市医師会会員有志の寄付により台座・説明文を設置する。2005年8月6日

06.08.06.撮影
(この碑は平和大通りの直角方向を向くのではなく)原爆ドーム(爆心地近く)を向いているそうです

15.03.21.撮影
平和大通りに≒直角方向からみました

15.03.21.撮影

15.03.21.撮影
(原爆ドーム方向を背に撮影しました) (平和大通り直角方向から撮影しました)

15.03.21.撮影
≒東北東方向からみました

15.03.21.撮影
≒東南方向からみました

15.03.21.撮影

15.03.21.撮影
敬称は略しました



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編
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