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東区二葉の里の“広島東照宮”に建立されている「広島東照宮原爆慰霊碑」です。 |
広島東照宮(爆心地から≒2,100m)は、原爆により本殿や拝殿などを焼失する大きな被害を受けたそうです。
1945(昭和20)年8月6日年被爆当日境内には市内中心部から逃れてきた多くの被災者であふれ、石段下には臨時救護所が設けられたそうで、避難してきた人々は次々と亡くなり、荼毘に付されたそうです。
被爆された(当時の)宮司は1946(昭和21)年に亡くなったそうですが、1947(昭和22)年夏ころ犠牲者を慰霊する慰霊木柱が(久保田幸重宮司によって)建てられ、1966(昭和41)年8月現在の碑に建替えらたそうです。 |
正面: |
原爆慰霊碑 |
側面: |
衆議院議員 砂原格(1902-1972) 謹書 |
裏面: |
昭和二十(1945)年八月六日の原爆により罹災者境内に溢れ救護所を設けられる。
偶境内に湧井在り この清水を飲みて幽明異にする者多し 寔に哀愍の情に堪えず 茲に慰霊碑を改建して永く哀史を伝えんとす。
昭和41(1966)年8月5日建之 東照宮 久保田幸重宮司誌 |
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広島原爆戦災誌によると
『・・・・二葉の里へは、他の地区からの避難者が数限りなく押し寄せて、神社・寺院の境内に充満した。東照宮の石段横に湧く清水を求めて、ここにも避難者がたくさん集っていた。
・・・(被爆当日の)六日、東練兵場(海軍救援隊)や東照宮石段下に救護所が設けられ、町内の比較的元気な者が総出で救援作業をおこなった。夕方、郊外から来たにぎりめしを配給した。また、警防団荒神分団も来援し、救護活動を行なった。・・・』とあり、碑文にもありますがその清水は、いまの石段横にはその面影はありません。 |
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牛田に住んでいたときは、初詣にきていたのですが、この慰霊碑のことは横目で見るだけだったのです。
市中心部で、またこの近くで被爆した人たちがここへ避難してきた歴史を(わたしは)考えることもなかったのです。身近だった処からでもと少しづつ原爆関連の慰霊碑を巡っています。
2001年撮影してこの頁を編集しました。 |
2001年に撮影してからこの原爆慰霊碑の周りでは色々なことがありました。時折撮影していました。 |
2015年久しぶりにこの原爆慰霊碑を中心に撮影しましたので、この頁の掲載画像を見直し、今回の撮影画像も加えこの頁を再編集しました。 |
15.09.03.再編集 01.12.27裕・記編集 |