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東区牛田中の牛田公園に建立されている「牛田(原爆死没者)供養塔」です。 |
こ牛田地区は、原爆の被害が大きく地区住民の約半数が死傷したそうです。
また、市内中心部から多くの被災者が避難してきたほか、京橋川では上げ潮で無数の死体が流れ着いたりしたそうで、牛田地区では700人以上の犠牲者が荼毘に付されたと云われています。
これらの犠牲者を慰霊するため、1950(昭和25)年供養塔が建立されました。1969(昭和44)年に清霊・碑が建てられ、1970(昭和45)年観音像が建立されたそうです。 |
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“牛田小学校学童疎開集”中の当時・牛田国民学校教頭・山下鉄夫先生の手記を参照しました。(07.04.13追記) |
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牛田国民学校(爆心地から≒2450mで、陸軍の救急薬品が多量に保管されていた)は、臨時救護所に指定され1945(昭和20)年8月6日被爆の翌日(8月7日)には呉の海兵団派遣の医療救護班が到着し、運動場にテントを張って医療活動を展開しました。
しかし、負傷者は次々に亡くなりその数は760余りにも及びました。
町内警防団などの人々で(いまは供養塔が建立されている)牛田公園で荼毘にふしたが300余名に及ぶ方々の身元は分からぬままでした。 |
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平和記念公園の「原爆供養塔(身元がわからない遺骨、氏名が判明しながら遺族のわからない遺骨を安置している)」の説明板の牛田関連の記述をみれば、牛田町地内300柱、牛田小公園220柱とあります。 |
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近くに住んでいたおじさんが、1945(昭和20)年に書き残した“原爆記”をHPに掲載しました。(03.05.31追記) |
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お袋(二葉の里・第二総軍司令部で被爆した)が、この牛田公園からそんなに遠くないとこに住んでいるのに、この牛田供養塔をわたしは知らなかったのです。毎年慰霊祭が催される事も今(2001年)回聞いたのです(以前わが一家も近くに住んでいたので女房はその事知っていました)。
多くの方々が、助けを求め・水を求めこの地にも逃げてきて、悲惨な姿で亡くなったと聞くにつけ、再びこのようなことがあってはならないとの思いが募ります。
あまりにも無関心で過ごしてきた日々であったと、無知からはじめた原爆関係慰霊碑巡りのぶらり散歩なのです。2001年撮影してこの頁を編集しました。 |
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清霊・碑の裏を今(2015年)回みると「祈原爆犠牲者御冥福 昭和四十四年五月建之 仁都栗
司謹書」と刻まれていましたので、遅まきながら知りました。 |
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いままで無かった大きな看板「原爆死没者慰霊之碑 至誠惻怛」が前面に設置されていました。
至誠惻怛〔しせいそくだつ:まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)があれば、
やさしく(仁)なれます。〕という言葉を知らなかったわたしは帰宅後調べ、このいしぶみにはいい言葉だな〜と思いましたが。 |
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慰霊之碑といっていますが、
「供養塔」と刻まれたいしぶみ、「清霊」と刻まれ「祈原爆犠牲者御冥福」とも刻まれたいしぶみにも“慰霊”という言葉を使っていませんので、「原爆犠牲者供養之碑」の方がいいのではとわたしは思いますので、この頁の標題も「牛田供養塔」のままとします。 |
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2015年久しぶりに訪ね、頭を垂れ、撮影しましたので、この頁を再編集しました。
お袋が特老でお世話になってから久しく来ていなかった(昨年末お袋を喪ってからはじめて立寄った)のです。盆を過ぎたのに真夏のような暑さだったので公園の木陰のベンチに座りお袋の事など考えながらしばらく休んでいました。 |
15.08.31.再編集 01.12.07裕・記編集 |