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中区基町のNTT広島玄関横に建立されている「電信電話公社職員原爆犠牲者慰霊碑」です。
※西日本電信電話(株)広島支店の資料では、碑銘を「中国電気通信局原爆犠牲者慰霊碑」としています。 |
広島中電話局など電信電話関係機関の職員を慰霊するため、募金によりこの慰霊碑が1955(昭和30)年8月建立されました。
中央にきのこ雲をかたどった黒御影製の(原爆犠牲者 慰霊碑と刻まれた)碑を配置し、その中に動員学徒を含む電信電話職員の犠牲者名簿(碑建立の1955年当時:573柱で年々追加しているそうです)が納められているそうです。 |
昭和二十(1945)年八月六日八時十五分 晴れわたった空に 閃光一閃一瞬のうちに 広島は廃墟とかしてしまいました。
当時 広島では緊迫した情勢の中で約二千名の職員が電信電話の仕事にたずさわっていましたが そのうち六百名ちかくの人たちが尊い命をうしなわれ 平和へのいしずえとなられました。この慰霊碑は原爆十周年にあたる昭和三十(1955)年八月 亡くなられた方方への 心からの追悼と みたま安かれとの願いをこめて日本電信電話公社の職員の手によって 建てられたものです。 |
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戦争中の陸海輸送体制強化を図るため1943(昭和18)年11月1日逓信省+鉄道省=運輸通信省の設置。
逓信省の所管事務のうち、郵便・貯金・保険・電信・電話の事業は運輸通信省の外局・通信院が所管しました。
1945(昭和20)年5月19日運輸通信省から通信院を分離、内閣所属部局として逓信院設置。(運輸通信省は運輸省に改称)。
(戦時下電信業務体制強化の為)郵便局とは独立した別組織(広島では)広島電信局が設置されました。
広島電信局(受付配達課、通信課、庶務課、同盟通信広島支局内分室、陸軍無線通信所内分室など)は、
空襲警報の伝達や電報業務を実施していました。
1944(昭和19)年4月(八丁堀)福屋百貨店新館地下2階に広島電信電話措置局設置(重要回線を移設)。
-原爆被災後-福屋火災発生その後水道管破裂で水浸しで使用不能になったそうです。
1945(昭和20)年6月〔RC造で堅牢〕軍部からの要請で広島電信局は富国生命ビルへ移転されました。
-原爆被災後-窓枠飛ばされ天井脱落、通信機器飛散(廃却)、近隣火災の延焼で全焼
⇒8月10日より広島中央電話局を仮局舎とする。
1945(昭和20)年8月29日(当時)安芸郡船越町の日本製鋼所「第二精心寮」へ移転決定「船越仮庁舎」。
12月下旬電話中継所、電話局、電信局など全機関移転完了。
敗戦を経て1946(昭和21)年7月1日逓信院を廃止して逓信省再設置。
1947(昭和22)年12月広島電報局を基町に移転。改装工事完了した広島中央電話局移転。
1952(昭和27)年8月1日日本電信電話公社法により日本電信電話公社設立、電気通信省・公衆電気通信現業部門の業務を継承。
1985(昭和60)年4月1日日本電信電話株式会社法により日本電信電話公社解散。業務等は日本電信電話株式会社に継承。
この(1985)年の民営化、及び後発通信事業者(いわゆる新電電)の新規参入まで、日本国内の通信(電報、専用線など)、通話(電話)業務を独占していました。 |
2000年から原爆関連の慰霊碑を巡りだしわたしですが、当時撮影した画像の処理がまずくても、慰霊碑を紹介することを優先して頁を編集していましたが、少しづつ見直しているのです。この慰霊碑の当時の画像はPCを壊した時失っていましたので2008年改めて撮影しました。また、電信電話公社の歴史もチト調べました。 |
2015年久しぶりに撮影しましたので、この頁の構成も見直し再編集しました。
2019年立寄りみると(上記二つの)石碑のに前に英語訳のプレートが設置されていました(ので)、撮影していました。2020年被爆75年のいまになりましたがこの頁を更新しました。 |
20.08.30.更新 15.05.13.再編集 01.12.27裕・編集 |