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南区比治山町の多聞院に建立されている「廣島郵便局殉職者之碑」です。 |
1945(昭和20)年8月6日被爆当時、細工町28番地の広島郵便局は、(爆心地の)島病院の道路向か側でしたので、全員が犠牲になったそうです。
犠牲者には、動員中の祇園高等女学校と本川国民学校高等科の教師・生徒も含まれるそうです。
碑は比治山の多聞院に建立され、職員222人と動員学徒64人教師2人の名前が刻まれています。 |
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(中國新聞2000年2月24日の報道では)別の動員先で被爆した学徒3名の生存が、新たな学徒1名と育児室にいた幼児8名が死没したことを確認したそうです。 |
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建立日:1953(昭和28)年8月6日
建立者:慰霊碑建設委員会 |
碑裏面:原爆殉職者288名の氏名が刻まれています
碑前の石柱:昭和33(1960)年11月1日広島西郵便と改称 |
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1953(昭和28)年にここ多聞院に「廣島郵便局殉職者之碑」が建立されましたが、
旧・廣島郵便局に近い元安橋東詰南側に「廣島郵便局職員殉職の碑」が1975(昭和50)年に建立されています。 |
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関連頁:旧・広島郵便局(本局模型) |
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2001年撮影してこの頁を編集しました。
先に元安橋東詰南側の「廣島郵便局殉職者之碑」の頁を編集する時こちらの碑の事を知り、撮影し、この頁を編集しました。 |
2015年久しぶりに撮影しましたので、この頁を更新しました。 |
コロナ禍の2021年多聞院を訪ねましたので、この広島郵便局殉職者之碑も訪ねl頭を垂れました。
何度か拝見している碑裏面を見たとき、今まで全く気にも留めていなかったこの碑の建立年をみたとき、昭和ではない和の字に気が付いたのです。
いままで、色々な石碑をみてきましたが、昭和を『昭』と記した石碑は(わたしは)はじめてでした(ので)。揮毫者の名は無いようでしが、戦争の時代とも揶揄された昭和。(昭和時代の)原爆殉職者の方々への強い思いがこの漢字に込められているのだろうか?と思ったので、取り上げることにしたのです。 |
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昭について神奈川県のHさんよりヒント(≒手掛かり)をいただきました。
『画数が多い異体字を使う理由は、魔除けや縁起担ぎ、文字の重複を避けるなどの意味があります。
殉職者の年齢から、お名前に「和」が使われている方が多いのではないでしょうか?
そのためわざと「和」を避けて異体字を使ったのではないか、と推察しました。
そういったことに思いを馳せ、難読字が使えるのは、地域の知識層にあたるお坊様かと思います。』 |
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を使用した訳:文字の重複を避けるため。
見落とししてなければ、苗字にはありませんでしたが、お名前に2人の方が、石橋和子さんと唐崎和幸さんが居られましたのでご教授受けた重複を避けることからではと思いました。 |
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揮毫者:地域の知識層にあたる人物。
昭和28年建立のこの碑は、多聞院に建立されていることから、云われるように真言宗のご住職だった?
または、ここ多聞院には広島藩儒者・頼春水など頼家の墓苑が建立されています(ので)頼家につながる人物だった?のかもしれません。 |
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22.08.03.追記 |
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22.07.14.更新 01.12.31裕・編集 |