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中区中島町の本川緑地に建立されている「広島県立広島工業学校動員学徒原爆遭難の碑」です。 |
当時の広島県庁付近で建物疎開に動員されていた1年生187人、教師3人※はこの碑近くで原爆により尊い命が奪われました。被爆当時、学校は今の千田町二丁目、千田公園の北にあったと聞きます。 |
表面: |
広島県立広島工業学校動員学徒 原爆遭難の碑 |
裏面: |
広島県立広島工業高等学校 創立90周年記念 昭和62(1987)年建立 |
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他の資料には、引率教官3名と第1学年生徒192名の方々が建物疎開先(中島新町)で全員犠牲になり、また他の動員先でも10数名が被爆死されたと云っているものもあります。 |
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広島市の資料では、
『生徒210人は、4人の教師の引率の下、建物疎開作業のため、中島新町(現在の中島町、爆心地から600m)に出動中被爆し、全滅しました。学校の創立90周年記念事業の一つとして、214人が犠牲となった場所に慰霊碑が建立されました。』とあります。 |
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2002年この「広島県立広島工業学校動員原爆遭難の碑」をはじめて撮影した時は、碑自体を撮影しただけでした。
それから根際の歩道を通る事はたびたびありましたが、碑の周りの状況が少しでも分かるようにと昨(2009)年になってやっと撮影していまし画像を追加しました。 |
2015年久しぶりに頭を垂れた後、撮影しましたのでこの頁を再編集しました。 |
15.03.24.再編集 02.02.15裕・編集 |