-撤去- 広島市立中学校職員生徒慰霊碑

  中区小網町の天満川緑地に建立されている(されていた)「広島市立中学校職員生徒慰霊碑」です。
※もともとは、近くの三光寺に1948(昭和23)年建立されました。
※(堤防整備工事で)2017年10月基町高校に移設されました。
※1) 『天満川堤防整備により2017年10月広島市立基町高等学校(中区西白島町25-1;旧制広島市立中学校の後身校)へ移設された。』ことを新聞報道で知りましたので追記しました。
※2) 2018年3月30日中國新聞報道で次のことを知りました。
『慰霊碑の遺骨、原爆供養塔へ
移設された広島市立中学校職員生徒慰霊碑を管理する基町高校同窓会が広島市に依頼した。
遺骨は約15cm四方の骨壷二つ分で、名前や人数は不明。2018年3月28日同窓会会長たち5人が、平和記念公園の原爆供養塔納骨室で広島市の担当者たちに手渡した。』
広島市立中学校では、小網町(爆心地から≒900m)で建物疎開作業中の1、2年生をはじめ、約370人の犠牲者をだしたそうです。
この「原爆三百六十九霊塔」碑(元廣島市立中学校遺族會の建立)は、当初1948(昭和23)年建物疎開作業場所に近い(小網町4-3の)三光寺に建立されました。
1975(昭和50)年8月6日現在地に移設されるとともに、「慰霊」と刻まれた石碑などが追加されています。
碑銘は「原爆三百六十九霊塔」となっていますが、碑文では碑建立後の1柱を加え三百七十余名となっています。多くの方々が犠牲になったのです。


























































































































































































































































































おじさんの「原爆記」にも出てくる八束嘉光、嘉孝兄弟が通っていた学校です。
建物疎開作業中亡くなった(遺体は見つからなかった)次男・嘉孝さんもここに名を留めています。
  -広島市立中学校は、現在の広島市立基町高等学校の前身校です。-
1942 昭和17年 広島市立中学校(天満小学校地の一部で)設立。
1943 昭和18年 現在の西区中広町3-1-41現在の広島市立中広中学校校地に新校舎建設・移転。
1945 昭和20年 8月6日原爆被災。生徒・教職員369人(370人)が被爆死。
   昭和20年 10月市立比治山小学校校舎を借用、授業再開。
1947 昭和22年 現校地(中区西白島町25-1:陸軍幼年学校跡)に新築・移転。
1948 昭和23年 (学制改革で)広島市立城北高等学校に改称。
1949 昭和24年 広島県広島基町高等学校に改称。
1980 昭和55年 広島市立基町高等学校と校名変更。
 沿革は、基町高校の資料を参考にしました。11.10.23裕・追記
2002年にはじめて訪ねて撮影してこの頁を編集しました。
今(2007年)回は、天満川対岸から、北側からみましたので撮影しました。。
2011年になって広島市立中学校とは?と尋ねられましたので、略沿革を追記しました。
2002年撮影の画像をPCを壊したときに失っていました事もあり、2015年久しぶりに訪ね撮影しましたので、この頁を再編集しました。
18.03.30.更新   15.06.17.再編集   02.05.31裕・記編集

02.05.17.撮影
広島市中区小網町8 天満川緑地

02.05.17.撮影

02.05.17.撮影

07.03.20.撮影
(慰霊碑を天満川対岸からみました)

07.03.20.撮影
(慰霊碑を≒北側からみました)  天満川と緑大橋

15.03.31.撮影

15.03.31.撮影

15.03.31.撮影

15.03.31.撮影
≒北側からみました  橋は緑大橋

15.03.31.撮影
≒南側からみました  橋は広島電鉄専用電車橋です



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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