広島県立広島工業学校校門

  広島県立広島工業高等学校のweb siteによるとここで取り上げた校門を、
『県工のシンボルである赤門は、1912(大正元)年に学校が千田町に移転した時に作られたものです。
1953(昭和28)年から現在の出汐町に学校が移転した後、1961(昭和36)年に写真等を参考にしながら門柱以外を教職員と生徒の手によって再建されました。』
と紹介しています。
回りくどく云っていますが、移設されたこの校門(門柱)は被爆した構築物(爆心地から≒2,000m)だったのです。
 * 2007年にここで取り上げた校門隣に建立されている「広島県立広島工業学校追悼碑」を訪ねた時にもみていたのでしょうが、撮影することもなかったのです。
今(2015)年訪ねた時に気が付き、被爆した校門だったのかもしれないと撮影したのです。
帰宅後学校のWeb siteに上記のように紹介があり再建だったのですが、校門(門柱)は被爆したもののようでしたのでこの頁を編集することにしました。
廣島縣立廣島工業学校略沿革
1897 明治30年 広島県職工学校として発足
1901 明治34年 県立へ移管
1916 大正5年 広島県立工業学校
1945 昭和20年 8月6日、原子爆弾により校舎(千田校舎)並びに寄宿舎(吉島町) 全壊し、生徒・職員(県立工業214名、市立工業53)は学徒動員先にて死亡。
(被爆当時市立工業高校が併設されていました)
1948 昭和23年 広島工業高等学校
1949 昭和24年 総合制広島皆実高等学校となりました〔広島市工業・有朋高校・広南高校と共に〕
1953 昭和28年 広島工業高等高校 〔廿日市高校土木科、工業化学科を吸収して〕
理工系だったわたしですが、(広島)県工には縁がありませんでした。しかし、被爆構築物でもあり、この(もともとの)校門が大正元年に造られたという年号に目が行ったのです。
大正元年は明治45年でもあるのです。明治天皇が明治45年7月30日に崩御され、7月30日から大正元年と元号が変わったのです。昨(2014)年、喪ったお袋が大正元年生まれだったのでそのことを知っていたのです。
この校門が造られた時と同じ歴史を歩んで来た(被爆した)お袋を思い、全体は再建とはいえ頁を編集しようと思った動機だったのです。
15.09.30.裕・記編集

15.07.22.撮影
広島市南区出汐2-4-76  県立広島工業高校
「被爆職員・生徒追悼碑」   「慰霊碑」                      “県工のシンボル赤門”

15.07.22.撮影
 (校内側からみました)

15.07.22.撮影
  (校外側からみました)

15.07.22.撮影
 
15.07.22.撮影
押手に”工”の字がみえます 廣島縣立廣島工業學校


「その他」編
その他のその他などなど


「被爆した建物・構築物」編



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県工(大正元年)復元校門


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