福島地区原爆犠牲者慰霊之碑

  西区福島町の平和大通緑地に建立されている「福島地区原爆犠牲者慰霊之碑」です。
福島生協病院に入院中の被爆者の中から「わたしたちは死んでも墓がない」という声があり、病院のケースワーカーの人たちが中心となって町民とともに長年の募金運動の後、建立されたのがこの福島地区原爆犠牲者慰霊碑でした。
運動の一環として、被差別部落被爆者の手記集「壁」が発行されていました。
碑の南北に名録碑があり、死没者の名前が毎年刻まれて増えてきているようです。
広島原爆戦災誌によると
『この福島地区(福島北町、福島本町、福島中町、福島南町、福島沖町、南三篠町)は爆心地より≒1,500m(福島橋西詰)がら≒2,700m(旧厚狭美橋川下)で、地区の南部に市営屠場(食肉中央市場)があり、種々の関連産業が盛んであったが、戦後は国道沿いの福島本通り商店街を除くほかは、ほとんど一般住宅地として整備されつつある。・・・・・
原子爆弾の被害は全域に及んでおり、当時の市内電車線路(福島中町と同南町の境を通る。現在は南方平和大通りに移設。)から北側が火災で大部分焼失した。被爆直前の地区内総建物数は約1,558戸、世帯数1,558戸世帯、人口6,037人でした。
家屋被害は、全壊:70%〜90%、半壊:30%〜10%。即死者10%〜0.5%、負傷者88%〜60%、無事:0.5%〜30%』などとあります。
(戦後、住居表示実施後新町名)福島1丁目、2丁目、小河内町1丁目、2丁目、都町































福島地区原爆犠牲者
慰霊之碑
建立:昭和52(1977)年7月25日
深川宗俊(ふかがわむねとし:1921-2008)
歌人。広島市出身。三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会共同代表。本名:前畠雅俊(まえはたまさとし)。
病気で兵役免除となり、原爆投下の前月(1945年7月)徴用工の指導員として広島市の旧三菱重工業に入社し被爆。終戦後見送った徴用工が帰国せず、消息を調査した。
2008年4月24日午前11時7分肺炎と心不全のため広島市の病院で死去。
資料をみて、2002年この「福島地区原爆犠牲者慰霊之碑」を訪ね頁を編集しました。
それ以来、平和大通りをぶらり散歩した時この碑の近くに来た時は訪ね頭を垂れていましたが、碑文作者の深川宗俊の事は資料にも記述なくわからなかったのです。
2014年になりましたが、「深川宗俊(2008年)死去 歌人」という記事(上記のように)で僅かばかりわかりましたので追記しました。
この頁を編集した時まだご存命で、同じ安芸区にお住まいだった事がわかりました。
2014年暮れになり訪ね撮影しました。2015年のいまになりましたが、この頁を再編集しました。
15.08.15.再編集    02.11.20裕・編集

02.11.15.撮影
広島市西区福島町1丁目・平和大通緑地

02.11.15.撮影

02.11.15.撮影

02.11.15.撮影
碑の両側に合祀名録碑があります

14.12.25.撮影
2004年から(西側)12名+(東側)27名の方々のお名前が加刻されていました

14.12.25.撮影

14.12.25.撮影
碑(表面)を東側からみました

14.12.25.撮影
碑(裏面)を≒西側からみました
敬称は略しました



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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