相生橋趾碑

  旧相生橋(木造の第1橋)が架けられていた処に建立されている『相生橋趾碑』と『親柱』です。
現在‘T字形’の相生橋は、当初中島北端を経由して‘く字形’をした木造橋・1878(明治11)年架橋でした。1912(大正元)年電車専用橋が北側に架橋され、1932(昭和7)年電車併用の鋼鈑桁橋として架替えられ、さらに1934年橋の中央部から中島北端(当時慈仙寺の鼻)へ橋桁を増設し所謂‘T字形’になったのですが、南側の木造橋が解体される1939(昭和14)年までは‘変形H字形’をしていました。

11.01.13撮影



























































































使














































































便





























































西











*明治10年=1877年。昭和7年=1932年。皇紀2600年=昭和15(1940)年
(碑文の大要です)
広島市猿楽街の西側、太田川に臨む処の、旧相生橋趾です。
初め明治10(1877)年春有志者が相謀って私費で猿楽街(町)より慈仙寺岬(鼻)に至る第一橋を架け、慈仙寺岬(鼻)から鍛治屋街(町)に至る第二橋を架ける事になりました。この二つの橋は慈仙寺岬(鼻)で相交わり接する奇構から相生という呼称になりました。明治11(1878)年架橋当時は渡銭を徴して架橋費をまかないました。
爾来幾星霜、時に修理してきました。昭和7(1932)年、広島県は新相生橋を旧橋の北に増設しました。
旧橋は朽ちてきましたので、昭和14(1939)年遂に撤去されました。そのようなことでこの碑を建て、創設者たちの功績を後世に伝へようとしました。、建碑の有志者、余に之を記すことを属す。
2004年この相生橋趾碑を撮影して以来少しづつ碑文を読んではいましたが、(わたしが)読めない字も多く、解読という事にはなっていませんでした。
碑文の大要は、小堺吉光著「ヒロシマ読本」にこの碑の記述がありますのでわかったのですが碑文となるとまとまりがないままだったのです。ところが、楽2006天さんという方が「言葉を面白狩る」という頁で解読されて居られましたので、参考にさせていただき碑文をまとめ、この頁をHPを引越している今(2011年)回追記し、再編集しました。
11.12.15追記   06.05.10更新    04.10.18裕・編集

11.11.29撮影
広島市中区大手町1 原爆ドーム西側元安川河畔(現・相生橋東詰南側)

09.09.14撮影
相生橋趾碑を西側(元安川越し)からみる

04.06.06撮影
相生橋趾碑裏面を東側からみました

11.12.10撮影
相生橋趾碑、旧・相生橋親柱、現在の相生橋

09.09.14撮影

11.11.29撮影
(旧・広島市民球場照明塔が解体されたバックになっています)



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