相生橋説明板

  中区大手町の相生橋西詰南側、大手町相生橋南詰に設置されている「相生橋の説明板」などをこの頁で取り上げました。
現在の相生橋東詰南側に原爆に被災してからの相生橋の歴史を刻んだ説明板が設置されています。
南詰根際には旧相生橋親柱が保存されており以前のスケッチ図が銅板に刻まれ取り付けられています。
いままで、相生橋(概説)の頁に一緒に編集していましたが、今(2011年)回、説明板付近を撮影して、分離独立したこの頁を編集しました。
なお、最初に架橋された相生橋については「相生橋趾碑」が建立されていますので、そちらの頁で取り上げています。
昭和59(1984)年6月広島市が設置した説明板は何処に設置されているか?がわかる画像がありませんでしたので(建設省広島国道工事事務所設置の説明板の南の根際ではあるのですが)撮影しましたので追加しました。
11.12.14更新    11.12.08裕・記編集

11.11.29撮影
広島市中区大手町1 (原爆ドーム西側元安川河畔)相生橋西詰南側の説明板

11.11.29撮影
昭和58(1983)年10月建設省広島国道工事事務所の説明板と現在の相生橋親柱

04.06.06撮影
  この橋名板は、原爆にあった相生橋を昭和24(1949)年修復した時に設置した親柱(右の絵)に取り付けられていたものです。
また まわりに張っている黒御影石は この親柱に使われていたものです。
左の絵は、昭和7(1932)年に架橋され、被爆を経て昭和24(1949) 年まで使われた橋の親柱をかいたものです。下の写真は、被爆2ヶ月後の昭和20(1945)年10月の相生橋附附近の状況です。
昭和59(1984)年6月 広島市

04.06.06撮影
  旧相生橋は、昭和7(1932)年に架設され全国でも珍しいT字形をした橋です。昭和20(1945)年8月6日の原子爆弾投下の目標になったともいわれます。この原子爆弾の爆発により、相生橋は、強い爆風を受け、その爆圧は、通常橋にかか荷重の15倍に当る1平方メートル当り7トンと推定されています。このような瞬間的に強い爆圧を受けた相生橋は、板バネのように大きく曲り、又跳ね返るような動きを繰り返し、同時にコンクリート床板は、宙に浮き上りました。幸い落橋を免れましたので修理し被爆後、約35年間使用されてきましたが、老朽化のため昭和58(1983)年10月に現在の橋に架け替えられました。新しい橋の親の橋名は、前衆議院議長灘尾弘吉先生の揮毫によるものです。
昭和58(1983)年10月  建設省広島国道工事事務所
昭和20(1945)年10月の相生橋附附近の状況 (相生橋橋名板碑より)
昭和7年に架橋され昭和24年まで使われた橋の親柱 昭和24(1949)年修復した時に設置した親柱

11.11.29撮影
昭和59(1984)年6月広島市設置の説明板と現在の相生橋

11.11.29撮影
(平和記念公園北端)相生橋南詰東側に展示の旧・親柱

05.01.13撮影
旧親柱が相生橋南詰の木立の中に設置されています。
昭和58(1983)年11月の相生橋の完成を記念して旧相生橋の親柱をここに設置する。
昭和59(1984)年3月 広島市

05.01.13撮影
南詰からみた旧相生橋のスケッチ図が旧親柱に取り付けられています



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