(復元された)猿猴橋
  南区的場町と猿猴橋町を結び猿猴川に架かる猿猴橋が架橋当時の姿に復元されました。
※1926(大正15)年新春時の猿猴橋の賑わいを四國五郎さんが描いた絵をこの頁下段で取り上げました。
被爆した猿猴橋(えんこうばし)でしたが、建造時の橋姿によみがえった「猿猴橋」です。
※(金属供出後の)被爆した猿猴橋の修復ではなく、橋の建造当時の姿への復元です。
※広島市によると復元事業費は約2億1千万円だそうです。
猿猴橋は、広島城下の西国街道に架かり、「東の玄関口」として、江戸初期から交通の要衝でした。
明治時代に入ってから、この旧西国街道は国道へと変遷、1886(明治19)年旧橋である木橋へと架け替えられましたが、老朽化とともに架け替えを迫られる時がきました。
1925(大正14)年6月着工された(竣工はWikipediaによると大正15年2月)現在の猿猴橋は、鉄筋コンクリート連続桁となり、橋台には地杭52本、橋脚にはケーソン基礎を施工し、表面には石張りをしていました。
さらに、総花崗岩造りの高欄は。巨大な親柱・束柱も備わり照明燈まで内蔵され、親柱上にはブロンズ製の大鷹の飾りや、束柱上には電飾燈、高欄には橋名の由来とも云われる二匹の手長猿が桃を握る透彫りデザインパネルが嵌め込まれ、1940(大正15)年3月に完成しました(竣工板には2月竣成となっていますが)。
その後、第二次世界大戦が激しくなる中、金属回収令によってこれら金属の装飾品は供出されました。
さらに1945(昭和20)年8月6日米軍による原爆投下で被爆するものの、原形をとどめた猿猴橋でしたが、国道2号線の路線変更や上流側に完成した駅前大橋へ交通の流れが変わるなど時代とともに「東の玄関口」としての役割を終えました。
「被爆に耐えた装飾的橋梁」として、2011(平成23)年度に土木学会で土木遺産に選奨されました。
往時の姿を復元しようと、2008(平成20)年地元住民らが「猿猴橋復元の会」を発足。
2015(平成27)年被爆70周年記念事業の中の一つとして、往時の猿猴橋に復元され、四隅の親柱には地球儀をつかんで羽ばたく鷹の像、欄干には桃を握る向かい合う2匹の手長猿の装飾などがよみがえりました。
2016(平成28)年3月28日完成式典が執り行われました。
各報道でこの復元された猿猴橋が竣工したことを知りましたので、撮影に行こうと思っていました。
11月になりましたが、撮影してこの頁を編集しました。
2018年になりましたが広島駅前大通会によって設置されている「猿猴河童由来・説明文」を撮影しました。
説明文には、猿猴橋の復元を熱望する心が記述されており、戦前の猿猴橋の姿に復元されました。
しかし、残されていた原爆を受けた事を示す熱線の跡が復元工事によって無くなったマイナス面も考えなくてはならないのではとわたしは考えていますので、敢えて取り上げました。
19.11.09.更新   16.12.19.裕・編集

16.11.26.撮影
広島市南区的場町と猿猴橋町を結ぶ(復元された)猿猴橋をみました (向こうはエールエールA館)

16.11.26.撮影
 
(猿猴川は干潮をむかえていました)

16.11.26.撮影
(後側:広島駅南口Bブロック市街地再開発ビルがほぼ全部竣工しました)

16.11.26.撮影

16.11.26.撮影
(復元された猿猴橋を南詰からみました)

16.11.26.撮影

16.11.26.撮影
(新しくなった)親柱と装飾 (新しくなった)「猿猴橋」橋名板

16.11.26.撮影

16.11.26.撮影
街燈と鷹の飾り 〔新しくなった〕親柱と(大正15年2月の)竣成版

16.11.26.撮影
(束柱上のシャンデリア風電飾燈)

16.11.26.撮影
(復元された欄干)

16.11.26.撮影
(手長猿が向かい合い桃を握っている意匠になっています)

16.11.26.撮影
「頼山陽漢詩・板」  「(新設)猿猴橋案内板」 「復元された猿猴橋」
 架橋当時の猿猴橋の賑わいを四國五郎さんが描いた絵を取り上げました

18.10.03.撮影
「架橋当時の新春の猿猴橋の風景」 画:四國五郎(1924-2014)さん。 

18.10.03.撮影
「猿猴橋・説明文」   平成19(2007)年広島駅前大通会設置
現在の猿猴橋は、大正15(1926)年に架けられた橋です。
当時は、親柱には地球儀の上を鷹が羽ばたく像があり、勾欄には橋の名にちなんで二匹の猿猴(河童)※1)の透かし彫りが嵌め込まれており、当時広島市内で最も立派な橋と云われていましたが、戦時中の金属類回収令により供出されました。
昭和20(1945)年8月6日原子爆弾により勾欄の一部も破損し、熱戦の跡も残っていました(が今回の復元工事でなくなってしまいました)。
※1)手長猿は桃を中心にして向かい合った透かし彫りです。(上に復元画像を掲載)

18.10.03.撮影
広島駅前大通会設置 「猿猴河童由来・説明文」
『えんこう云うたら河童のことなんよ。河童は川の神さんなんで。川は人間の生命・文化の故郷であり人間らしい心の根源が河童心なんじゃ。猿猴橋いうたら河童心の橋いうことよ。
・・・中略・・・
世の為人の為想いを込めて河童心の橋を復元しようと云うんはわしらの永年の夢なんじゃけえのお。どうおもうかいのあんたら。この想いひと夢を伝えたい心が猿猴河童の由来でがんす。』
知新集〔1822(文政5)年に整理編集〕には次のような記述があります。
『猿猴橋、長三十六間はゝ二間五尺四寸欄干付、此はしの名由縁知かたし、』とあります。
(ので)江戸時代後期までは橋名の由来は不明だったのでしょう。
∴上記でいう猿猴橋と猿猴(河童)の由来は明治以降に云われだしたものであろうと思います。



「広島の橋」編


被爆した建物・構築物



広島ぶらり散歩
(猿猴橋関連頁)
猿猴橋
  (復元工事中)猿猴橋
(復元された)猿猴橋
猿猴橋・案内板-南詰設置-
(北詰新設)猿猴橋・案内板
猿猴橋水管橋
猿猴橋水管橋撤去
猿猴橋水管橋・説明板


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