(新設された)猿猴橋案内板
  南区猿猴橋町に猿猴橋の復元に合わせて広島市によって北詰(猿猴橋町側)に設置された
                                             説明板と被爆親柱モニュメントです。
*南詰(的場町側)には、2008年に設置された“猿猴橋と西国街道”の説明板があります。
 * いままで北詰ではなく東詰と(わたしは)解釈していましたが、今回地図を見ると猿猴橋南詰と表記がありましたので、これからは(猿猴橋町側)北詰、(的場町側)南詰として記述していきます。
猿猴橋は、毛利輝元(1553-1625)が広島城築城をはじめた1589(天正17)年頃に木橋として架橋され、1926(大正15)年に現在の鉄筋コンクリート桁橋に架け替えられました。
その際、電飾や透かし彫りなどの華麗な装飾が施されていましたが、1943(昭和18)年戦時下の金属資源不足のため発せられた金属回収令により、これらの装飾品が全て供出され、石の欄干と親柱に取り替えられました。
1945(昭和20)年8月6日の(米軍による)原子爆弾投下では、欄干の一部が破損する被害を受けたものの、構造的な被害はわずかにとどまり、被災者の避難や救援活動に使われ多くの命をつなぐ役割を担いました。(爆心地から≒1,820m)
2015(平成17)年、被爆70周年の節目を迎え、広島市は記念事業として猿猴橋の復元に取り組み、広島の復興を見届けてきた猿猴橋の一部を復元し、後世に伝えようとする地元の取り組みと連携して、2016(平成28)年架け替え当時の姿へ復元しました。
※広島市によると復元事業費は約2億1千万円だそうです。
猿猴橋には、1926(大正15)年架設当時から使用されている花崗岩と、金属回収令により供出された装飾品の代替えである花崗岩が使用されていました。
この姿は、「被爆に耐えた装飾的橋梁」として2011(平成23)年度に土木学会選奨土木遺産に認定されていました。
これらの花崗岩は、被爆70周年記念事業として猿猴橋の復元工事を実施する際、補修工事を行った上で、最大限活用して復元しています。
また、被爆の実相を後世に伝えるため、被爆時の姿をモニュメントとして保存しています。
広島市
※猿猴橋(えんこうばし)をこの説明板英語表記では「Enko-bashi Brige」としていますが、
                                      Enkouとしなくてはと(わたしは)思います。
被爆した橋と云う事で(わたしは)この猿猴橋を2000年はじめて撮影しました。
その時の被爆した猿猴橋の姿が変わりました。
広島市は被爆70周年記念事業のひとつとして、架橋当時の姿に戻すことに予算を付けたようですが、復元工事にケチをつけるようになるかもしれませんが、被爆した猿猴橋の修復保存するためでないことから未来の広島市民に残そうというものではないことから間違っていると(わたしは)思います。
1兆円になんなんとする市債という大借金都市広島市が、架橋当時の猿猴橋の姿に復元するには別予算(たとえば、まちづくり・賑わいつくりなどという)で行われるのが筋ではと思うからです。猿猴橋の復元が単に懐古趣味と云われないようにするのが必要ではないのかと思います。
説明板が設置されていましたので、撮影しこの頁を編集しました。
   16.12.20.裕・編集

16.11.26.撮影
広島市南区猿猴橋町側(猿猴橋北詰側)に設置

16.11.26.撮影
 
頼山陽漢詩板  被爆した親柱モニュメントとdr津名板
    関連頁:(案内板の根際建立)頼山陽漢詩板

16.11.26.撮影
被爆モニュメント(親柱と欄干)  説明板(案内板)

16.11.26.撮影
(猿猴橋についての説明板)

16.11.26.撮影
1926(大正15)年を架け替え当時の猿猴橋-(説明板の写真を使用しています)

16.11.26.撮影
1945(昭和20)年原爆投下後の猿猴橋-(説明板の写真を使用しています)

16.11.26.撮影
猿猴橋の被爆した石(花崗岩)の保存・活用:説明板

16.11.26.撮影
猿猴橋モニュメント



「広島の橋」編


被爆した建物・構築物



広島ぶらり散歩
(猿猴橋関連頁)
猿猴橋
 (復元工事中)猿猴橋
(復元された)猿猴橋
猿猴橋・案内板-南詰設置-
(北詰新設)猿猴橋・案内板


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