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広島市南区(復元された)猿猴橋の北詰(猿猴橋町側)に設置されている「頼山陽詩板」です。
*この詩と同じ石碑が1970(昭和45)年に中区東平塚町の鶴見橋西詰南側京橋川緑地帯に建立されています。 |
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(大意) |
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欲
及
萱
堂
未
就
眠
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同
人
莫
恠
吾
行
疾
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己
看
両
岸
市
燈
懸
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猿
子
橋
頭
生
暮
煙
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郷
に
到
る
頼
山
陽
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郷(きょう)に到(いた)る
萱堂(けんどう)≒母上 |
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家
に
着
き
た
い
の
だ
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母
が
眠
り
に
つ
か
な
い
う
ち
に
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早
い
の
を
怪
し
ま
な
い
で
欲
し
い
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同
行
の
人
よ
私
の
足
ど
り
が
|
と
も
っ
て
い
る
の
が
見
え
る
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両
岸
に
は
街
灯
が
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夕
も
や
が
生
じ
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猿
猴
橋
の
た
も
と
は
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(解説) |
文政八(1825)年10月6日、頼山陽(らいさんよう:1780-1832;作詩当時46歳)が京都から広島に帰省し、広島城下東端の猿猴橋(えんこうばし)にさしかかった時に作った詩です。 |
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監修:頼山陽史跡資料館 製作:広島市 |
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2004年交流ウォーク時(ここで取り上げた漢詩板と)同じ頼山陽の詩碑が、建立されていることを教えていただき、頁を編集していました。
2016年復元された猿猴橋の説明板と共にこの頼山陽の漢詩板が設置されていることを知り撮影しこの頁を編集しました。 |
詠まれた漢詩が猿猴橋だったことで、本来のゆかりの地ということで、説明板が製作され設置されたのでしょうが、広島市は石碑の建立者との調整同意が必要でしょうが(建立時に建立場所の許可等でもめたようにもわたしは思いますが)、(立派な)石碑をこの猿猴橋根際に移設できなかったのかと思わずにはおられませんでしたので、ここに書きました。 |
関連頁:(京橋川緑地帯建立)頼山陽詩碑 |
16.12.21.裕編集 |