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南区的場町と猿猴橋町を結び猿猴川に架かる「猿猴橋」です。
*この頁の題:猿猴橋の読みは橋名板の(旧かなづかい)「ゑんこうは(志)し」を使用しています。 |
(何度かの架替はあっても)江戸時代から架かっていた橋だそうです。
資料では、広島地方などで猿猴は水陸両棲の河童のようなものを云っていたそうで、其れに由来する事から名付けられたと云われています。
また、一説には猿猴(猿)※の生息地であったので猿猴川と命名され、その川に架かる橋のため猿猴橋になったという説もあります。
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知新集〔1822(文政5)年に整理編集〕を見ていたら、次のような記述がありました。16.12.19.追記
『猿猴橋、長三十六間はゝ二間五尺四寸欄干付、此はしの名由縁知かたし、』とあります(ので)。
江戸時代後期までは橋名の由来は不明だった。
∴上記で紹介した由来は明治以降に云われだしたものであろうと思いました。 |
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(えんこう)
猿猴:
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1) 猿類の総称。古くは多く手長猿をいった。
2) 河童の別名。
3) 人形浄瑠璃界で、手のこと。
4) 月経のこと。「猿猴へ手を出し亭主ひっかかれ」〈柳多留・七七〉 |
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現在の猿猴橋は、1926(大正15)年3月16日供用開始しました。
(3径間+2径間)連続鉄筋コンクリート桁橋として架けられました。
橋長:62.4m、幅員:8.5m、上部:鉄筋コンクリート連続桁橋、下部:壁式橋脚。 |
1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原爆によって欄干の一部が破損する被害はあったものの渡ることはできたそうです。 |
爆心地から≒1,820m |
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資料の写真をみると、戦前(金属回収令で供出される前までは)手摺柱間には、二匹の猿が向かい合い(1個の)桃を持っているデザインの欄干飾りが付けられています。
また親柱の飾りには地球儀の上に羽ばたく鷲の像がありました。この羽ばたく鷹は皆実町の現・平和塔(旧称:日清戦争凱旋碑)の鷹と同じような姿の鷹です。
*〔2016年3月28日戦前の橋姿に復元され完成式典がありました〕復元猿猴橋は別頁で編集します。 |
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被爆した橋と云う事で(わたしは)この猿猴橋を2000年はじめて撮影しました。
現在は駅前大橋がメインの通りになっていますのでこの猿猴橋を通ることは多くはないのですが、2007年3月東詰で工事看板を見たのです。それには1億円の工事費をかけて沈みかかっている水管橋を撤去する工事看板でした。(2007年)6月26日までの工期になっていました6月16日立ち寄ってみると既に(被爆した橋脚も)撤去工事は完了していましたので別頁で編集しました。
2007年11月エールエールA館屋上からこの猿猴橋を見下ろした画像を追加しました。 |
18.10.31更新 00.07.30裕・編集 |
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00.07.22.撮影 |
広島市南区的場町と猿猴橋町を結ぶ猿猴橋(手前の橋)をみました (向こうは荒神橋) |
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00.07.22.撮影 |

00.07.22.撮影 |

05.04.29.撮影 |
橋名石:猿猴橋 |
ゑんこうは志 |
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05.10.10.撮影 |
(北側が)猿猴橋水管橋 爆心地から≒1810m |
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07.06.16.撮影 |
(猿猴橋の向こうに見えていた水管橋の橋脚も撤去されました) |
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07.12.26.撮影 |
猿猴橋(手前の橋)をみました (向こうは荒神橋) |
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15.01.11.撮影 |
(復元前=被爆した)猿猴橋 (向こうは駅前開発Bブロック工事中) |
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15.01.11.撮影 |
猿猴橋南詰の案内板 と 被爆した親柱 |
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(被爆前の猿猴橋の姿に復元) “復元工事中”、”復元された猿猴橋”は別頁で編集しています。 |

18.10.03.撮影 |
復元された猿猴橋 |
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18.10.03.撮影 |
猿猴橋町(北側)から猿猴橋をみました 復元された親柱 |
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