ひろせはし
広瀬橋

  西区天満地区と中区十日市・榎町地区を結び天満川に架かる「廣瀬橋」です。
※「廣瀬橋(本体)」の上流側と下流側に歩道橋(部分)を1960(昭和35)年に増設しています。
 歩道橋は橋長:83,1m。幅1.7mです。
現在の広瀬橋は、竣工板から1957(昭和32)年5月竣功でした。(6月竣工と聞いていましたが)
3径間鈑桁橋。
橋長:83.1m、幅員:8.1m。ゲルバー鋼板桁橋とききます。
旧廣瀬橋は、1907(明治40)年木桁橋として架橋されました。
資料によると(被爆した)旧廣瀬橋は、1919(大正8)年頃架橋の木桁橋でした。
        (被爆した)旧広瀬橋爆心地より≒1,180mだったそうです。
1945(昭和20)年8月6日原爆により落橋したそうです。
*(旧廣瀬橋は)現在の広瀬橋の100mあまり上流に架橋されていました。
2005年広島ぶらり散歩「広島の橋」編を編集するので、撮影しました。
昭和14年3月18日陸軍運輸部検閲済の「大廣島市」地図をみると旧廣瀬橋の位置が参考にしていた被爆関連の資料と違っていましたので、追記しました。
地図をみていて、被爆建物「広島中央電話局西分局」の位置、被爆構築物が残る「廣瀬神社」の位置から“現在の広瀬橋”の位置がわかりました。下段に地図を付けました。
頁を更新しようと、2014年、2015年撮影していましたが、したつもりになっていたようです。2020年にも撮影しましたので、この頁をやっと更新しました。
  20.12.14.更新  05.01.14裕・編集

05.01.13撮影
広島市西区天満地区と中区十日市・榎町地区を結ぶ広瀬橋を≒南よりみました

05.01.13撮影
右手(東詰)に被爆建物・NTT広島西営業所(白いビル、爆心地より≒1,080m )があります

05.01.13撮影
北よりみました

05.01.13撮影
廣瀬橋 昭和32(1957)年5月竣功
施工者 (株)藤田組 ※
藤田組略沿革
1910(明治43)年 広島市で藤田一郎、定一兄弟が土木・建築請負業を開業。
1942(昭和17)年 社名を株式会社藤田組に改称。1945(昭和20)年 空襲で本社焼失、広島支店原爆被災。
1971(昭和46)年 社名をフジタ工業に改称、現在に至る。

14.12.25.撮影
広瀬橋を上流(左岸)よりみました

14.12.25.撮影

14.12.25.撮影

14.12.25.撮影
橋銘板:ひろせはし

14.12.25.撮影
下流側から橋桁をみました

14.12.25.撮影
歩道部分の桁受け柱  と  本体橋桁支点 をみました

14.12.25.撮影

15.04.18.撮影
上流側から広瀬橋をみました

15.04.18.撮影

20.01.09.撮影
下流(右岸)側から広瀬橋をみました

20.01.09.撮影
昭和14(1934)年3月18日陸軍運輸部検閲済(大廣島地図の一部)
廣瀬神社  爆心地より≒≒930m
「広島中央電話局西分局」  爆心地から≒1,080m
(いまは無き)津田式ポンプ製作所  爆心地から≒900m (廣瀬神社南側に位置していました)
(現在の広瀬小学校に建立の))広瀬学区原爆死没者慰霊碑



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