2011(平成23)年 平和宣言

  今(2011)年平和宣言は、(4月10日に新市長に選ばれた)松井一実市長によってなされました。
官僚から市長に転身しただけのことはあるのでしょうか、手堅い平和宣言だったように(わたしは会場の折りたたみ椅子に座って)聞きながら思いました。
市長自身には、はじめての平和宣言だったからでしょうが、被爆者の声に耳を傾け平和宣言の中にその言葉の一部を引用していました。被爆二世として、また「脱秋葉」を考えた現れだったように(わたしは)思いました。
「出かける平和から迎える平和」が自身の基本方針だそうですが、それは被爆地・広島市長として余りにも内向きで消極的すぎるとわたしは思いますので、少しづつでも広島の願いを(また、被爆二世としても)世界に出かけて語っていただきたいと、期待を込めて願っています。
(いまは前)秋葉市長は、2020年オリンピック誘致を云いだしていましたので、2011年も、秋葉市長の平和宣言を聞かされるのかなと思っていたら正月4日仕事始め式の時に次期市長選挙に立候補しないと云ったとニュースで知りました。不出馬の理由をユーチューブでしか一方的に述べることしかしなかった秋葉市長(この市長と対抗馬を考えた時)に過去の選挙で一票を投票してきたわたしは「飛ぶ鳥跡を大いに濁した」と思いましたので、いままで(式典会場では)秋葉市長の平和宣言しか聞いてこなかったわたしは、今年の平和宣言とは直接関連しませんがここに記しました。
楽天運営のインフォシークが(有料の)HPスペースの提供を止めると云ってきましたので、HPを8月15日から引越をはじめ、なかなか進みませんでしたが12月半ばに終わりました。この平和宣言の頁編集が、師走の今になりましたが年を越さなかったのがせめてもの事かと。
 11.12.23裕・記編集

11.08.06裕撮影
平和宣言中の松井一実広島市長
66年前、あの時を迎えるまで、戦時中とはいえ、広島の市民はいつも通りに生活していました。かつて市内有数の繁華街であった、ここ平和記念公園の地にも、多くの家族が幸せに暮らす姿がありました。当時13歳だった男性は、打ち明けます。―「8月5日は、中学2年生の私にとっては久しぶりに一日ゆっくり休める日曜日でした。仲良しだった同級生を誘って、近くの川で時間の経つのも忘れて夕方まで、砂場でたわむれ、泳いだのですが、真夏の暑いその日が彼との出会いの最後だったのです。」

ところが、翌日の8月6日午前8時15分に、一発の原子爆弾でそれまでの生活が根底から破壊されてしまいます。当時16歳だった女性の言葉です。―「体重40キロの私の体は、爆風に7メートル吹き飛ばされ意識を失った。意識が戻ったとき、辺りは真っ暗で、音の無い、静かな世界に、私一人、この世に取り残されたように思った。私は、腰のところにボロ布をまとっているだけの裸体で、左腕の皮膚が5センチ間隔で破れクルクルッと巻いていた。右腕は白っぽくなっていた。顔に手をやると、右頬はガサガサしていて、左頬はねっとりしていた。」

原爆により街と暮らしが破壊し尽くされた中で、人々は、とまどい、傷つきながらもお互いに助け合おうとしました。―「突然、『助けて!』『おかあちゃん助けて!』泣き叫ぶたくさんの声が聞こえてきた。私は近くから聞こえる声に『助けてあげる』と呼びかけ、その方へ歩み寄ろうとしたが、体が重く、何とか動いて一人の幼い子供を助けた。両手の皮膚が無い私は、もう助けることはできない。・・・『ごめんなさい』・・・。」

それは、この平和記念公園の地のみならず、広島のいたるところに見られた情景です。助けようにも助けられなかった、あるいは、身内で自分一人だけ生き残ったことへの罪の意識をいまだに持ち続けている人も少なくありません。

被爆者は、様々な体験を通じて、原爆で犠牲となった方々の声や思いを胸に、核兵器のない世界を願い、毎日を懸命に生き抜いてきました。そして、被爆者をはじめとする広島市民は、国内外から心温まる多くの支援を受け、この街を蘇らせました。

その被爆者は、平均年齢77歳を超えながらも、今もって、街を蘇生させた力を振り絞り、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求し続けています。このままで良いのでしょうか。決してそうではありません。今こそ私たちが、すべての被爆者からその体験や平和への思いをしっかり学び、次世代に、そして世界に伝えていかなければなりません。

私は、この平和宣言により、被爆者の体験や平和への思いを、この世界に生きる一人一人に伝えたいと考えています。そして、人々が集まる世界の都市が2020年までの核兵器廃絶を目指すよう、長崎市とともに平和市長会議の輪を広げることに力を注ぎます。さらに、各国、とりわけ臨界前核実験などを繰り返す米国を含めすべての核保有国には、核兵器廃絶に向けた取組を強力に進めてほしいのです。そのため、世界の為政者たちが広島の地に集い核不拡散体制を議論するための国際会議の開催を目指します。

今年3月11日に東日本大震災が発生しました。その惨状は、66年前の広島の姿を彷彿させるものであり、とても心を痛めています。震災により亡くなられた多くの方々の御冥福を心からお祈りします。そして、広島は、一日も早い復興を願い、被災地の皆さんを応援しています。

また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。そして、「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。

日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです。また、被爆者の高齢化は年々進んでいます。日本政府には、「黒い雨降雨地域」を早期に拡大するとともに、国の内外を問わず、きめ細かく温かい援護策を充実するよう強く求めます。

私たちは、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、「原爆は二度とごめんだ」、「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という思いを新たにし、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。
2011(平成23)年8月6日 広島市長  松井 一實  
◇上記宣言文は、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」会場で配られている式次第の中にある「平和宣言(日本語)」を転記しました



平和記念式典関連頁・全体



広島ぶらり散歩へ
2011年平和記念式典へ


平和宣言 2011年
「平和への誓い」2011年
菅直人首相挨拶の言葉2011年


inserted by FC2 system