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山口市香山町の瑠璃光寺に建立されている「大内弘世公之像」です。 |
大内弘世公は、中世西日本の守護大名勢力をもっていた大内氏二十四代の当主です。室町幕府の重臣として、度々上京しているうち、京都の風情を好み、地形の似た山口盆地に、京都になぞらえて町造りをしました。これが「西の京」といわれる山口の町の誕生です。大内弘世はよく(室町)幕府を助け、領国を治め、文学を愛し、社寺の建立保護に努め、まことに文武兼備の名将でした。康暦2(1380)年に山口で歿しました。 |
昭和55(1980)年3月 市制施行50周年記念 山口市長 堀 泰夫 |
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(おおうちひろよ)
大内 弘世:
(1325-1380) |
南北朝時代の武将、守護大名。周防・長門・石見守護。多々良姓大内氏の第9代当主。
周防(山口県)大内村の領主。観応の擾乱(じょうらん)で足利尊氏に対抗する足利直冬(ただふゆ)に味方して南朝方となり、同族で周防守護の弘直をおさえた。のち幕府と和解し周防、長門、石見の守護となる。本拠を山口にうつし大内氏繁栄の基礎をきずいた。 |
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毛利元就(1497-1571)が中国地方を統一するまでは、わたしが住む安芸地方は大内氏の影響を受けていたとも聞きます。東区に大内越峠があります、その名の由来が周防の大内氏に由来するのです。
また、元就に厳島合戦で敗れた陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)は主君であった大内義隆(1507-1551)を討ったことなどをHPを編集しながら知ってきました。
山口では大内氏が京都の文化をとりいれ都市つくりをしてきた事で「西の京」と云われていることは知っていましたが、ここで取り上げた大内
弘世のことはこの銅像ではじめて知るというわたしでした。 |
12.02.27裕・記編集 |