おんどおおはし
音戸大橋

  呉市警固屋と(倉橋島の)安芸郡音戸町鰯浜を結び“音戸の瀬戸”に架かる「音戸大橋」です。
※2005(平成17)年3月20日安芸郡音戸町は呉市と合併編入され呉市音戸町になりました。
平清盛が切開いたといわれている幅90mの“音戸の瀬戸”その“音戸の瀬戸”を一跨ぎする音戸大橋は呉市警固屋と(倉橋島の)安芸郡音戸町※1)を結ぶ橋として1961(昭和36)12月に完成しました。
規模:L=172m(主橋梁長)〔呉側桁橋20.0m+アーチ橋(ランガー橋)116.0m+音戸側桁橋36.0m〕。
アーチスパン:114.88m、アーチライズ:17.0m。主有効幅員6.0m(車道幅員:5.5m)〔歩行可〕。
(千トン級の船が航行可)、H=23.5m
にアーチ型・螺旋型高架橋。
総工費3億6200万円だったそうです。
(2005年)現在渋滞等の解消の為に第二音戸大橋の計画が策定
されているそうです。
※音戸大橋の工事は、日本道路公団によるもので
1961(昭和36)年12月3日開通時は日本道路公団が管理する有料道路でした。
1974(昭和49)年8月1日から無料化され、広島県が管理する橋になっています。
 (無料化前の料金は、普通乗用車@120円/台、自転車@10円/台、歩行者@5円/人。だったそうです)
※1) 安芸郡音戸町は、2005(平成17)年3月20日呉市と合併し、呉市音戸町になりました。
第二音戸大橋は、2013(平成25)年3月27日供用を開始しています。
1962(昭和37)年5月皐月の季節に兄貴達とこの大橋を見に行きました、遠い昔の事でした。
今なら瀬戸大橋、明石大橋等の橋の規模と比べれば長さといい、2車線しかない幅など大橋とは言いがたい規模ですが、当時は大きな橋として話題になりここまで見物に来たのでした。
時は過ぎ、2003(平成15)年黄金週間というのに家でゴロゴロしていてもと思い、女房とここ音戸のツツジでも見にいくかとなったのです。ツツジは終りを迎えていましたので、もう少し早く行かなければなりませんでした。
(40余年も昔に訪れたのは四月、ツツジの終りだったのかも?と、わたしは今回のぶらり散歩を考えていました)
2021(令和3)年になりましたが第二音戸大橋が開通してはじめて、この音戸大橋を撮影しました(ので)。音戸大橋+第二音戸大橋の画像も加えました。
そこで、音戸大橋単独の画像は少しばかり貴重になって来たかなとこの頁の掲載画像も見直し、色々な角度の画像を加え再編集しました。
関連頁:音戸の瀬戸公園 22.01.29.更再編集   01.10.28裕・記編集

00.10.05撮影

00.10.05撮影

00.10.05撮影

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〔呉市警固屋の“音戸の瀬戸公園”(南東側)から〕音戸大橋をみました

00.10.05撮影

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00.10.05撮影
(音戸大橋上から)
清盛塚をみました
(音戸大橋を降りて)
南側からみました

00.10.05撮影

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音戸側螺旋道路から音戸大橋をみました

00.10.05撮影

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00.10.05撮影

00.10.05撮影
南西(音戸町)側からみました 音戸渡船から音戸大橋を見上げました

01.12.14.撮影

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02.04.18.撮影

02.04.18.撮影

03.05.03撮影
北西(音戸町)側から 橋下から ツツジ満開 南南西側から 渋滞中

21.05.06.撮影

21.05.06.撮影
音戸市民センター付近からみました 手前:音戸大橋 向側:第二音戸大橋
たいらのきよもり
平清盛

1118〜1181



清盛公像も見る
平安末期の武将。太政大臣。忠盛の子。実父は白河法皇という。母は祇園の女御の妹。通称平大相国、法名浄海。 平氏の棟梁。
1129(大治4)年従五位下左兵衛佐、1146(久安2)年父忠盛の海賊追捕の賞を譲り受け従四位下中務少輔、安芸守となる。安芸守になった機会に宮島の厳島明神を信仰するようになり、父とともに西国への勢力を拡大した。翌年祇園社との間に乱闘事件を起こし贖銅30斤に処せられたが、1153(仁平3)年忠盛の死後、「富は巨万、奴僕は国に満つ」と左大臣藤原頼長が表した遺産を受け継ぎ、平氏の総帥となった。1156(保元1)年保元の乱には後白河天皇方につき、その功によって播磨守・大宰大弐となる。
1159(平治1)年平治の乱で源義朝を滅ぼしてからは、王朝国家の軍事力を一門で握り、以後官職は破格の勢いで進んだ。1160年参議、1161年検非違使別当、1166年内大臣、1167年従一位太政大臣となり平氏政権を樹立した。この間、妻時子の妹滋子が後白河院の後宮に入って、1161年高倉天皇を生み、その中宮に娘の徳子(建礼門院)をおくり天皇家との婚姻政策を図ってついに安徳天皇の外戚となり、巨大な勢力を築いた。9人の娘のうち長女は藤原信西の子桜町中納言成範に、盛子は関白藤原忠通の子基実に、その他近衛基通、冷泉大納言隆房修理大夫信隆らに嫁がせ摂関家との協調をはかり、さらに天台座主明雲とも通じて、宮廷にその勢力を扶植した。
一門による官職の独占、30ヶ国の知行国、500余ヶ荘の荘園、兵庫(大輪田泊)と鎮西を根拠にした日宋貿易などを政治的・経済的基盤として六波羅政権を樹立した。
1168(仁安3)年出家して静海・清蓮と称した。1177(治承1)年鹿ヵ谷の事件を切り抜けたのち、1179年後白河法皇を幽閉してクーデターを行ったが、以後平氏追討の動きが活発となり、1180年源頼朝の挙兵をきっかけに諸国の源氏が挙兵するなかで福原に遷都し、寿永の内乱期を前に1181(養和1)年閏2月4日64歳で熱病で死んだ。
資料は平凡社版:世界大百科事典を参考にしました
にょうご
女御
天皇の寝所に侍した女性で、皇后・中宮の下、更衣の上の格。多くは摂関など名家の子女から選ばれ、人数は不定。平安中期以降、女御から皇后を立てるのが例となった
ひょうえ-ふ
兵衛府
律令制で、兵衛を監督し天皇の身辺警固をつかさどった官司。左右二府からなる。衛門府・左右衛士府とともに五衛府(平安初期以降は六衛府)を構成する。つわもののとねりのつかさ
さひょうえ-のすけ
左兵衛佐
左兵衛府の次官。正六位下相当
さんぎ
参議
律令制で令外官の一。三位・四位の中から選ばれ、大・中納言に次ぐ重職。平安時代には定員八人となった。八座。宰相。「三木」とも書く、おおまつりごとびと
けびいし
検非違使
平安初期に置かれた、令外の官の一。京中の非違・非法を検察する役であったが、訴訟・裁判も扱うようになりその権威は強大になった。のちに、諸国や伊勢神宮・鹿島神宮などにも置かれた。
けびいし-のべっとう
検非違使別当
検非違使庁の長官。参議以上の者でその任に適した兵衛督・衛門督などが兼任した。
しょくどう
贖銅
律令制で、財産刑の一。銅を納めさせることによって、実刑にかえるもの。また、その銅。身分の高い者・老人・病者・過失殺傷者などに科せられた。
だいに
大弐
律令制で、大宰府の次官の上位。正五位上(のち従四位下)相当。権(ごん)の帥(そち)を置かないときに、帥の下に置いた。大宰大弐。
がいせき
外戚
母方の親戚。げしゃく。



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音戸大橋
第二音戸大橋(工事中)
第二音戸大橋(開通後)
(通称)第三音戸大橋


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