でん・きよもりづか
伝・清盛塚

  呉市音戸町鰯浜に建立されている清盛供養塔と伝わっていますので「伝・清盛塚」という呼称になっています。
広島県指定の史跡     伝清盛塚      1951(昭和26)年4月6日指定 
倉橋島の呉市音戸町と呉市警固屋町との間にある海峡を音戸の瀬戸と名付けられています。ここは幅150mの狭い海峡で平清盛(1118-1181)が開削して航行の便をはかったと伝えられています。
平清盛の供養塔と伝えられている清盛塚は、音戸の瀬戸の西岸の西岸倉橋島に近接した岩礁の上に石垣(49m余り)を築き小島としたもので、宝篋印塔(ほうきょういんとう)一基(高さ2.05m:室町時代・1333-1572の作)が建てられています。昔は小島でしたが、こんにち(倉橋)島側が埋立てられ島に接するまでになっています。
※資料は広島県教育委員会の資料などを参考にしました
塚の後ろ側にクロマツが植えられており「清盛松」と呼ばれているそうで、マツの色が悪くなると不吉の前兆であるとして、人々が根元に「たこのゆがき汁」をそそいで、生気をとりもどさせたという逸話が伝えられているそうです。
この頁を編集した2000年にNETで知り合いになった方より神戸市須磨に清盛塚があるのですよと話がありました。そういわれれば兵庫の方が本物だろな〜思いましたが、調べると1923(大正11)年墓標でないことが判明したとありました。
この(現呉市)音戸町の清盛塚もお墓ではなく音戸の瀬戸を開削した清盛の遺徳を讃えたものでしょう。
※2005(平成17)年3月20日安芸郡音戸町町は呉市に編入されて消滅しました。
22.01.29更新     00.10.28裕・記編集
    関連頁:(厳島神社の末社)清盛神社   民話:宮島ものがたり 

00.10.05撮影
現・呉市音戸町鰯浜
音戸大橋より清盛塚(岩礁の上に石垣を築き小島となっている)をみました

00.10.05撮影
音戸大橋より向側:音戸町役場、 手前:清盛塚をみました

00.10.05撮影
清盛塚〔宝篋印塔(高さ2.05m、室町時代のも)のが建立れています。〕
(ほうきょういんとう)
宝篋印塔::
宝篋印陀羅尼の経文を納めた塔。方形の基礎・塔身・蓋からなり、蓋の上に相輪を立てる。蓋の四隅に隅飾り突起がついているのが特徴。のちには供養塔・墓碑塔にも用いられた。聖塔(しようとう)。
2021年音戸町側(南側)から撮影
2000年撮影時安芸郡音戸町役場だった処は、“おんど観光文化会館うずし” が建っています。
伝・清盛塚の松は大きくなっているようです。
音戸市民センター付近から音戸大橋(と第二音戸大橋)を撮影した時、清盛塚の松が写っていましたので年の経過をしみじみ思いましたので取り上げました。 
22.01.29.追記

21.05.06.撮影
手前の橋桁が音戸大橋、向側の橋桁が第二音戸大橋
 

21.05.06.撮影
たいらのきよもり
平清盛 1118-1181
 平安末期の武将。太政大臣。忠盛の子。実父は白河法皇という。母は祇園の女御の妹。通称平大相国、法名浄海。 平氏の棟梁。
1129(大治4)年従5位下左兵衛佐、1146(久安2)年父忠盛の海賊追捕の賞を譲り受け従4位下中務少輔、安芸守となる。安芸守になった機会に宮島の厳島明神を信仰するようになり、父とともに西国への勢力を拡大した。
翌(1147)年祇園社との間に乱闘事件を起こし贖銅30斤に処せられたが、1153(仁平3)年忠盛の死後、「富は巨万、奴僕は国に満つ」と左大臣藤原頼長が表した遺産を受け継ぎ、平氏の総帥となった。
1156(保元1)年保元の乱には後白河天皇方につき、その功によって播磨守・太宰大弐となる。
1159(平治1)年平治の乱で源義朝を滅ぼしてからは、王朝国家の軍事力を一門で握り、以後官職は破格の勢いで進んだ。
1160年参議、1161年検非違使別当、1166年内大臣、1167年従1位太政大臣となり平氏政権を樹立した。この間、妻時子の妹滋子が後白河院の後宮に入って、1161年高倉天皇を生み、その中宮に娘の徳子(建礼門院)をおくり天皇家との婚姻政策を図ってついに安徳天皇の外戚となり、巨大な勢力を築いた。
9人の娘のうち長女は藤原信西の子桜町中納言成範に、盛子は関白藤原忠通の子基実に、その他近衛基通、冷泉大納言隆房修理大夫信隆らに嫁がせ摂関家との協調をはかり、さらに天台座主明雲とも通じて、宮廷にその勢力を扶植した。
一門による官職の独占、30カ国の知行国、500余ヵ荘の荘園、兵庫(大輪田泊)と鎮西を根拠にした日宋貿易などを政治的・経済的基盤として六波羅政権を樹立した。
1168(仁安3)年出家して静海・清蓮と称した。
1177(治承1)年鹿ヵ谷の事件を切り抜けたのち、1179年後白河法皇を幽閉してクーデターを行ったが、以後平氏追討の動きが活発となり、1180年源頼朝の挙兵をきっかけに諸国の源氏が挙兵するなかで福原に遷都し、寿永の内乱期を前に1181(養和1)年閏2月4日64歳で熱病で死んだ。



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