みなみがた じんじゃ
南方神社

  三原市本郷町南方字二本松に鎮座している「南方神社(旧称・宗長神社)」です。
神社境内地にあった二本松古墳(石室)はいまはその姿を消していますが、この古墳石室にあったという“二本松古墳の組合式石棺”が境内に安置展示されています。
境内に建立の“與茂九郎池紀念碑”もみましたのでこの頁で取り上げました。
     南方神社 (旧称・通称:宗長神社)
祭神:
帯中津日子碑、品陀和気命、息長帯日売命、大山祇命、宗形三女神、建御名方神、
    宇気母智神、伊邪那美神、高御産巣日神、神直日神。

相殿神:
和久産日神、宇気母智神、大年神、御年神、若年神。
由緒:1909(明治42)年日名内神社を小梨神社に合祀し、されに1913(大正2)年宗長神社に合祀して南方神社と改称したのです。
しかし、現在では小梨神社や日名内神社は旧社地に独立した神社になっています。
当神社すなわち宗長神社は、1268(文永5)年藤原行高公が当国へ下向の時、この山に上って山の名を尋ね、里人が“宗長”と申し出ると、良き宮居(≒神が鎮座すること)の地かなと申されのちに男山(石清水八幡宮)の御祭神を勧請し篤く崇敬して社領を付与したと伝えられています。その所に、御年代、散米、油免という字名があります。
福島正則(城主1600-1619)の時に社領を没収されました。その後の1622(元和8)年の棟札を有しています(再建された)。
1994(平成6)年発行の広島県神社誌を参照して南方神社のこの頁を編集しましたが、掲載の画像を見ると、その当時の本殿は木造ですので、現在の本殿はそれ以後に建替えられたことがわかりました。
藤原行高なる人物のことは(わたしには)よくわかりませんが、守護として当地に下向してきた人物だったのだろうと考えましたが。
∴13世紀までは二本松古墳は存在していたのではと考えましたが、よくわかりません。
石清水八幡宮は、京都府八幡(やわた)市にある神社。
祭神は誉田別命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・比咩大神(ひめおおかみ)。
∴宗長神社としての祭神は帯中津日子碑、品陀和気命、息長帯日売命の三柱で、他の神様は他社を合祀した時の祭神だろうと(わたしは)考えましたが。
ここ三原市本郷の梅木平古墳、御年代古墳、貞丸古墳」1号古墳、2号古墳、大日堂を見学したのち、最後の二本松古墳を見学することになりました。
この二本松古墳も今までみてきた古墳のような石室をみることができるのだろうと期待して、南方神社の参道石段横の二本松古墳の標識に従い上っていきました。
境内をみて回ったのですが、二本松古墳につながるものは拝殿前の横に展示してある二本松古墳にあったという“組合式石棺”だけでしたので、少々がっかりしたわたしでした。
※標識の“二本松古墳”は、「二本松古墳の石棺」と改題した方が適切な表現ではと思いました。
二本松古墳という頁で編集しようと当初は考えていましたが、南方神社として頁を編集することにし、二本松古墳の石棺は、この頁の下段に一緒に編集しました。
最初の画像は、遅い昼食を摂った国道2号線沿いの「てっちゃん」の駐車場から南方神社鎮座(ニ本松古墳の)小高い丘を見た処です。
天ぷらをその場で揚げたあつあつの天婦羅を食べました。食通ではないわたしですが安く美味しかったのでこの頁の趣旨とは違いますが(画像もありませんが)記述しました。
 
 16.05.23.裕・記編集

16.05.12.撮影
広島県三原市本郷町南方字二本松8849      (正面のこんもりした処・丘に鎮座)

16.05.12.撮影

16.05.12.撮影
拝殿

16.05.12.撮影
本殿、幣殿

16.05.12.撮影
 
與茂九郎池(よもくろういけ)紀念碑 
※与茂九郎池記念碑ですが碑銘は、與、紀念を使っています
  2008年5月1日「広報みはら」に与茂九郎池についてわかる記事がありました。
『・・・本郷町南方尾原地区は、川や湧水を利用して百戸の農家により稲作が営まれていた江戸時代中期の明和期(1764-1771)水不足に悩まされていました。尾原の組頭・児玉政次郎は溜池を造ることを決意しました。難工事で、私財をも投入して着工4年目の1774(安永3)年完成。周囲約1km、面積1.2haで尾原60haの水田を潤して余りある溜池でした。
その後、政次郎は真良村、南方村の庄屋を務め1789(寛政元)年死去。1891(明治24)年尾原の人たちはその功績を讃え、与茂九郎池の小島に芦白神社を建立しました。』と紹介がありました。
ここ宗長(南方)神社の石段途中に建立の「與茂九郎池紀念碑」も同時期に建立されたのではないかとわたしは思いました。
溜池の記念碑だろうと思い水関連の頁に加えるべくNET検索で“広報みはら”がヒットし、この項目を編集しました。
池の位置図はつけませんが、「本郷町南方 与茂九郎池」で検索するとゴルフ場根際のこの池がすぐ出てきました。

16.05.12.撮影
與茂九郎池紀念碑 

16.05.12.撮影
宗長神社改築紀念碑

16.05.12.撮影
寛政九巳春  奉寄進  氏子中建之 (寛政9年=1797年)    普通の石燈籠
 
二本松古墳の石棺 
本郷町重要文化財 二本松古墳の石棺  平成2(1990)年11月17日指定
平成17(2005)年行政合併に伴い三原市指定
石棺には、いろいろな種類がありますが、この石棺は家型(家形)石棺です。蓋石の頭部に平坦な面があり、四方に傾斜していて屋根の形を思わせていることからこの名前がついています。
蓋石の長辺に2個づつ縄掛(なわかけ)突起がついています。身(み:石棺本体)は側石と底石で五枚の板石を組み合わせて作った組合せ式sです。
石材は、流紋岩質凝灰岩で、兵庫県高砂市産の龍山(たつやま)石であることが判明しており、おなじように龍山石で造られた石棺が、この沼田川流域で6個発見されています。
石棺は分解され、南方(宗長)神社拝殿の踏石や手洗い鉢に使用されていましたが1983(昭和58)年12月17日境内に復元し安置されました。
長さ205cm、幅110cm、高さ120㎝の組合式石棺
二本松古墳の石棺の特徴               本郷町観光協会平成23年12月発行のリーフレット参照
 1)沼田川流域に発見されている石棺のうち最古に築造されています。
 2)石棺の内面は古墳時代(5世紀頃)に塗られた朱と思われる朱色をみることができます。
 3)屋根形の蓋石の屋根の平坦面が狭長です。
 4)屋根の傾斜が比較的急にして稜線が明確です。
 5)縄掛突起が立派で形骸化が少ない。
境内をみて回ったのですが、二本松古墳につながるものは拝殿前の横に展示してある二本松古墳にあったという“組合式石棺”だけでしたので、少々がっかりしたわたしでしたでしたので、撮影にも力が入りませんでした。
 

16.05.12.撮影
 広島県三原市本郷町南方字二本松8849  南方神社

16.05.12.撮影
(石棺の中に残っている朱色がみえるということで画像を明るく加工してみましたが)

16.05.12.撮影
「歩いてみよう歴史の散歩道」という本郷町南方の古墳群を紹介しています 



「神社寺院など」編



「古墳遺跡遺構など」編



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