松永駅南口ロータリー広場

  福山市松永町のJR松永駅前に整備されている「松永駅南口ロータリー広場」です。
JR松永駅で下車し南口前の広場を見た時、さほど広い面積ではありませんでしたが、松永の町が、製塩で発展し、その後履き物の製造で発展してきたという説明板を読み、野外彫刻の松岡高則作:彩生、今城國忠作:松永開祖本荘重政像、松岡高則作:(塩田)浜子像をみました。そしてびんご畳表の里・碑。広島県立松永高等学校跡・碑をみましたので駅前のローターリーにあたるこの広場を取り上げました。
   松永〜「塩」のまちから「はきもの」のまちへ〜
福山市の西部に位置する松永。履き物のまちとして有名ですが、近年までは塩田のまちとしても名を広めていました。江戸時代、遠浅の海を干拓してはじめた塩づくりは、長い間松永の中心産業でしたが、時代の流れの中でその歴史を閉じました。
明治初期、塩を煮詰める薪材の利用から下駄づくりを始め全国に先駆けた機械化で日本一の大産地となり、松永の下駄は手頃な大衆下駄として親しまれてきましたが、生活様式の変わる中で今ではその技術をサンダルやスリッパに生かしています。履き物を作り続ける松永は、日本人の足のふるさとです。
   松永の下駄
江戸時代、塩田産業で栄えていた松永町において、下駄づくりが発展したのは、塩積み船の帰りに安価な木材を持ち帰っていたことや、塩田用の海水の水路が木材運搬に、また遠浅の海が貯木に適していたことなど好条件に恵まれていたからです。
そんな下駄に関する歴史や、1,200点にも及ぶ世界各国の珍しい履き物を、旧下駄工場を利用した日本で唯一の履き物専門の博物館「にっぽんはきもの博物館」で紹介しています。
  塩の田んぼ〜塩田〜
松永の塩の歴史は古く、最も古い製塩の遺跡は6・7世紀頃のものといわれています。
福山藩に帰藩していた本庄重政は干拓事業の指導をし、1656年〜1667年にかけて柳津新田、高須新田、松永新田に広大な塩田を完成させ、松永の塩の地盤を築きました。以後300年松永の塩は福山藩を豊かにし、地場産業として栄えてきました。しかし塩業の近代化と外国塩の輸入に押され、昭和30年代塩田の歴史は幕を閉じました。
表面: 日本一伝統を誇る びんご畳表の里
裏面: 備後畳表の沿革
備後表は、貞和3(1347)年からの長い歴史と伝統を誇る備後地方の特産物として、全国に名声を博し、品質日本一の名実ともに不動の地位を築き上げて参りました。
昭和10(1935)年広島県藺草作付面積最高 1,528ha
昭和48(1973)年広島県畳表生産枚数最高 1,299万枚

 平成13(2001)年8月 広島県藺業協会他4農業協同組合
* 『安芸備後の領主だった福島正則(1561-1624)が江戸幕府に献納したのが先例となり備後表は日本最高の畳表として、備後藩の水野氏、阿部氏と献上表改役や表奉行が任じられ管理にあたって藺草の栽培から畳表の製作に至るまで、保護統制が行われていました。
(2012年)現在、広島県内の藺草栽培は尾道市と三次市で各一戸が行っており、今年12月には福山市内でも一戸が植え付けるそうです。』
南々社発行「元就。ひろしまテスト」に備後表の問題があり、その解説に上記のような記述がありましたので参照しました。
     -松永高等学校略沿革-
1922 大正11年4月 広島県沼隈郡立実科高等女学校として開校。
1923 大正12年 広島県立松永高等女学校と改称。
1948 昭和23年 (戦後の高等学校再編成により)広島県松永高等学校と改称。
1962 昭和37年4月 松永町(現在の松永駅南口)より現在地(福山市神村町113)に移転。
1968 昭和43年 広島県立松永高等学校に名称変更。
今(2012)年10月「鉄道の日記念・JR西日本一日乗り放題きっぷ」@3,000円で(広島)県内の山陽本線でわたしが撮影していない駅を撮影することにしたのです。
JR松永駅10時時6分着。10時29分発の電車に乗る前に駅(南口)、駅前広場の野外彫刻などをみましたが他にも興味深い記念碑などがありましたので、この頁を編集しました。
12.11.05.裕・記編集

12.10.16.撮影
広島県福山市松永町4  松永駅南口ロータリー広場

12.10.16.撮影
松岡高則作:彩生

12.10.16.撮影
今城國忠作:松永開祖本荘重政像

12.10.16.撮影

12.10.16.撮影
びんご畳表の里・碑 広島県立松永高等学校跡・碑

12.10.16.撮影
松岡高則作:(塩田)浜子像



「公園・緑地など」編



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JR松永駅
松永駅南口ロータリー広場
松岡高則作:彩生
今城國忠作:松永開祖本荘重政像
松岡高則作:(塩田)浜子像


「備後・福山」編


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