今城國忠作:松永開祖本荘重政像

  福山市松永町のJR松永駅前に建立されている今城國忠作「松永開祖本荘重政像」です。
松永の地は、萬治3(1660)年福山藩士・本荘重政により干拓の工が起され、七年の歳月を経て、四十八浜の塩田を完成し、その名も松寿永年の願いをこめて塩の里として生れたのです。
爾来、重政はこの地に留まり、殖産および民生の発展を計りました。松永の今日在るのはその鴻業によるものです。

        
昭和51(1976)年6月  元松永塩田関係者
*鴻業(こうぎょう)=大きな事業
本庄重政;本荘重政(ほんじょう しげまさ:1606-1676)
江戸前期の兵法家。土木事業家。尾張生れ。字:憐情(れんじょう)、通称:杢左衛門。父重紹は佐々成政(?-1588)、水野勝成(1564-1651:福山藩初代藩主1619-1639)に仕えた。
重政は岡山の池田光政(1609-1682)に仕えたのち浪人。承応3(1654)年10歳の長子杢を福山藩主水野氏に出仕させ、その後見人として500石を受ける。4代藩主・水野勝種(1661-1697)の命で、領内各地の新田開発にたずさわり、万治3(1660)年神村・柳津(福山市)沖の干拓に着手,塩浜39町余を開き,商人を招いて街を設け。寛文7(1667)年に完成し、松永と命名した。
松永駅南口ロータリー広場で最初に目にとまった野外彫刻:松岡高則作:彩生を撮影している時、時計塔の裏側(南側)に建立のこの像に気が付いたのです。
松永には‘はきもの博物館’があることで履物の町ということは知っていましたが、その前は製塩業の地だった事をこの像(の説明板)で知ったわたしでした。
この碑名に「本荘重政」とありましたが、帰宅後資料をみると本庄重政とありましたので併記しました。
12.11.07.裕・記編集

12.10.16.撮影
広島県福山市松永町342-10

12.10.16.撮影

12.10.16.撮影

12.10.16.撮影



「野外彫刻など」編


「広島ゆかりの人たち」編



広島ぶらり散歩へ
JR松永駅
松永駅南口ロータリー広場
松岡高則作:彩生
今城國忠作:松永開祖本荘重政像
松岡高則作:(塩田)浜子像


「備後・福山」編


inserted by FC2 system