松岡高則作:(塩田)浜子像

  福山市松永町のJR松永駅前に建立されている松岡高則作「(塩田)浜子像」です。
福山藩の本荘重政[1607(慶長12)年生れ]は、若き日に播州赤穂で製塩を学び、1660(萬治3)年に干拓の工を起こし「松永」新涯に当時最新式であった入浜式塩田を導入し、自ら塩田の造成にあたりました。
この地は「松寿永年」にちなんだ「松永」の名を得て、ここに「塩の村」が誕生しました。
重政は松永に住居を構え、七年の歳月を経てついに四十八浜を1667(寛文7)年に完成させました。「松永の塩」は品質に優れ、江戸はもちろん北前船などで遠く日本海側の各地まで運ばれ名声をとどろかせました。しかし、「松永塩田」も時代の流れのもとで、1960(昭和35)年ついに200年の歴史に幕を下ろしました。
ここに、塩田の一部を再現しています。
 2008(平成20)年10月 福山松永ライオンズクラブ   制作者 日展評議員・松岡高則(79)
  入浜式塩田は、かん水を採るため開発された方法の一つです。
(揚浜式塩田に比べ海水を塩砂に散布する作業が省略され、大幅労力の軽減が実現したそうです)
塩の干満の差を利用して海水を引き入れ毛細管現象によって砂を湿らせます。
遠浅の海岸に堤防を造り、満潮・干潮時の水位の高さの中位に塩田面を築きました。
浜溝に海水を導き、毛細管現象によって砂層上部に海水を供給し、太陽熱と風で水分を蒸発させ、砂に塩分を付着させます。この砂を沼井に集め海水をかけて、かん水を採りました。
この方法は潮の干満差を利用した画期的な方法で、17世紀半ばに瀬戸内海沿岸で開発されてから昭和30年代まで続きました。
    (塩田での作業としては)
  1. 砂を塩田に撒いて広げます。
  2. 毛細管現象の促進のために上から海水を撒きます。
  3. 水分の蒸発を助けるために表面の砂をかきおこします。
  4. 砂が乾いたら集めて沼井に入れます。
  5. 沼井(ぬい=かん水抽出装置)に海水をかけて砂についた塩分を溶かします。
  6. 沼井からかん水がでてきます(その後で煮つめて結晶化させます)
*資料は、(財)塩事業センターの資料などを参照しました
松永駅南口ロータリー広場で最初に目にとまった野外彫刻:松岡高則作:彩生を撮影し、今城國忠作:松永開祖本荘重政像を撮影して、この塩田の様子を再現したこの作品をみました。説明板に制作者松岡高則とありましたので、海水を塩田にまく作業と塩田をならす作業をしている二体の人物像を撮影しこの頁を編集しました。
12.11.08.裕・記編集

12.10.16.撮影
広島県福山市松永町342-10

12.10.16.撮影

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12.10.16.撮影

12.10.16.撮影

12.10.16.撮影

12.10.16.撮影



「野外彫刻など」編



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JR松永駅
松永駅南口ロータリー広場
松岡高則作:彩生
今城國忠作:松永開祖本荘重政像
松岡高則作:(塩田)浜子像


「備後・福山」編


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