(万葉集にも詠まれた)風早の浦

  東広島市安芸津町風早にあるJR呉線風早駅付近からみた瀬戸内海を取り上げました。
※万葉集にも編まれている和歌が詠まれた地でもあります。
天平8(736)年、阿部継麻呂(?-737:帰国中客死)を大使として派遣された遣新羅使の一人が、風早の浦で詠んだ歌(万葉集)の歌碑と陶壁が祝詞山八幡神社に建立されています(わたしは未撮影ですが)。
(巻15-3615) わが故に 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり
(巻15-3616) 沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 嘆きの霧に 飽かましものを
*風早の沖に霧がたちこめているのを見て、嘆き悲しんでいる妻を思って詠んだ歌ニ首です。
付近の地図を見ていると唐船島がありました。(安芸津商工会の資料を参照すると)
1806(文化3)年伊能忠敬(1745-1818)他14人が海岸線と島周りを図っているそうです。
1806年3月6日唐船島を一周して図ったそうです。
唐船島は細長い船の形をしていることから朝鮮通信使が通行する際によく似ていたので唐船島と名付けられたと云われています。
近くのホボロ島と同じように岩質がもろいので「ナナツバコツブムシ」にも浸食され島が分離するのではないかと危惧されているそうです。
1806(文化3)年1月18日岡山を出発し、瀬戸内海沿岸および瀬戸内海の島々を測量しました。
測量にあたっては地元の協力も得て、瀬戸内海の島々を多くの舟と多くの人数で測量している様子を描いた絵巻『浦島測量之図』が残されています。
1月28日に福山、2月5日に尾道、3月29日に広島に到着しました。
    関連頁:完全復元伊能図全国巡回フロア展
1999年安芸津で1年ほど仕事の関係で単身赴任で住んだことがありました。週末同僚の車に同乗させてもらい(西条経由で)広島に帰っていましたが、同僚と休みが合わないときは呉線・安芸津駅を利用していました。
一度安芸津(の現場)から風早駅へ夕方の瀬戸内海をみながらぶらり散歩したことがありましたが、当時は万葉に詠まれたことがある事など知らずボーッと生きていたのしょう。
時は令和の世になって、万葉集に注目が集まるようになっていますね。
JR風早駅を編集するとき万葉にも詠まれた地であったことを知りましたが、まだ平成の世だったので編集していなかったのです。いま(冷和元年)になりましたので編集した次第です。
19.06.22..裕・記編集

17.08.31.撮影
広島県東広島市安芸津町風早2810-5 JR風早駅付近からみた瀬戸内海

17.08.31.撮影

17.08.31.撮影
(万葉の時代にはカキ筏はなかったでしょうが)

17.08.31.撮影

17.08.31.撮影
(国土地理院の地図を利用しています



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