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中区上幟町の縮景園に広島市によって設置されている「原爆被災説明板」です。 |
縮景園・原爆被災説明板 |
爆心地約1,220m〜1,460m |
この庭園・縮景園は、1620(元和6)年広島藩主浅野家の家老・上田宗箇(1563-1650)により藩主・浅野長晟(1586-1632)の別邸として設けられました。
戦前は市民に「泉邸(せんてい)」の名称で親しまれていましたが、1945(昭和20)年8月6日人類史上最初の原爆投下により、このような無残な姿となりました。
被爆直後数多くの被災者がここに避難してきましたが、治療もほとんど受けることがないまま息絶えその遺体は園内に埋葬されました。 |
1945(昭和20)9月 松本栄一氏撮影 |
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わたしは、縮景園は浅野の殿様が造ったのがはじまりなのだくらいの認識しかありませんでした。
おじさんの「原爆記」を読んで、避難先に指定されていた縮景園には1945(昭和20)年8月6日米軍の原爆投下の直後から数多くの被災者が避難してきたそうで、被爆し傷ついた多くの方が亡くなったことを知ったのでした。
2003年になりましたが、この頁を編集しました。 |
※おじさんの「原爆記」の中にも『泉邸方面に避難する火傷の人達でゴッタ返している』とあります。 |
2015年久しぶりに訪ねた時、(広島気象台の)サクラ標準木は既に葉っぱが出てきていましたが、この原爆被災説明板の後ろの枝垂れ桜(源平枝垂れ桃でした)が満開でしたので撮影しました。 |
2021年もコロナ禍の終息にはまだまだでしたが、(広島の)桜の標本木が代わったことを報道で知り、撮影に来たのです。そこで、この被災説明板の近くにも標本木(副)があったので、この被災説明板も久しぶりに撮影しました。
被災説明板を裏側から撮影した時、枝垂れ桜と思って2015年撮影した木が、(赤・白等咲き分ける)「源平枝垂れ桃」の標識で、間違って記述していたことに気が付いたのです。すみません訂正します。 |
21.07.27.更新 03.02.05裕・記編集 |