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ここでは、広島県内に建立されている中村憲吉が詠んだ短歌の歌碑などを取り上げています。 |
中村憲吉 (なかむらけんきち:1889-1934) |
歌人。広島県双三郡(ふたみぐん)布野村(ふのそん:現・三次市布野町)に生れました。家は、祖父の代まで庄屋をつとめていましたが、父の代になって酒造業に転じ、この地方きっての素封家(そほうか)でした。
1906(明治39)年三次中学校を卒業、鹿児島第七高等学校(造士館一部甲類)に進み、1915(大正4)年東京帝国大学(法科大学経済科)を卒業し、結婚しました。翌(1916)年10月帰郷して家務につきました。1920(大正9)年4月西宮市外鉾池畔に居を定めましたが不況で就職口がありません、ようやく、1921(大正10)年11月から5年間大阪毎日新聞の経済部記者として勤務。1926(大正15)年3月家督相続を機に、4月末退社、6月家務で再び帰住。1930(昭和5)年ろく膜の病を得て、それ以来健康は回復せず、1934(昭和9)年5月5日尾道市千光寺公園の仮寓で没しました。享年46歳でした。 |
高校時代友人の堀内卓造のすすめで作歌をはじめました。1909(明治42)年以降伊藤左千夫(1864-1913)に師事し「アララギ」同人*として万葉的短歌の発展に寄与しました。
作品は、1913(大正2)年島木赤彦と合著歌集「馬鈴薯の花」、ついで、「林泉(りんせん)集」(1916年)、「しがらみ」(1924年)、「松の芽」(1925年)、「軽雷(けいらい)集」(記者時代の作品が中心で、1931年)の歌集に収録され生涯に三千首を超える短歌を残しています。 |
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アララギ派 |
短歌雑誌「アララギ」で活躍した歌人の一派。 |
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アララギ |
短歌雑誌。
1908(明治41)年蕨真一郎(わらびしんいちろう:1876-1922)が「阿羅々木」として創刊。
翌(明治42)年「アララギ」と誌名を改め、伊藤左千夫を中心に編集、古泉千樫(ちかし:1886-1927)、齋藤茂吉(1882-1953)、島木赤彦(1876-1926)、土屋文明(1890-1990)、平福百穂(ひゃくすい:1877-1933)らが参加。万葉調の写生を重んじる歌風(写実的、生活密着的歌風を特徴とし、近代的人間の深層心理に迫り、知性的で分析的な解釈をした)近代短歌の発展に貢献したと云われています。 |
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2009年に三次市の尾関山公園で、また鳳源寺で、中村憲吉の歌碑をみていました。 |
2011年に尾道市を訪ねた時、千光寺公園で、中村憲吉終焉の家を見学し、歌碑(複数)をみていました。 |
2012年5月末、交流ウォーク増田先生のお世話になり、現・三次市布野町の中村憲吉の生家、お墓、そして町内建立の歌碑(複数)を訪ねましたので、項目としては少ないのですが、この「中村憲吉」編を編集しようと思ったのです。 |
今(2013)年、昨年に続き交流ウォーク増田先生のお世話になり、、中村憲吉の母校である(現在の)三次高校を訪ね、校門の正面に建立されている中村憲吉歌碑を撮影しました。 |
13.04.28.更新 12.06.22裕・記編集 |