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東区二葉の里の鶴羽根神社付近でみた「廣」と鋳込んだマンホール蓋を取り上げました。 |
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戦前戦中は一般的には「廣島」と表記していたようです。
正岡子規(1867-1902)が、1895(明治28)年比治山で詠んだという『鶯の口さきなり三萬戸』という俳句には廣嶋比治山と題がついており、「廣嶋」も使われていたようです。 |
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このマンホールをみた時、戦前の広島のマンホール蓋であろうと思いましたが、中央に「廣」の字が入ることよりも1896(明治29)年5月19日に制定された市章が入るのが普通なのではとも思いました。
それでも、(確かなことはわたしには云えませんが)、廣島市によって戦前に設置されたマンホール蓋ではと思いましたので取り上げました。 |
14.08.09.裕・記編集 |
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