熊野町のマンホール蓋

  安芸郡熊野町でみた熊野町のマンホール蓋を取り上げました。
※中心に町章がありその周りを熊野筆をデザインしています。
安芸郡熊野町総務課の資料によると
『「マ」の字を9つ重ねて「クマ」とし、中の▼で「の」を表すとともに、周囲を山で囲まれた高原の盆地を表しています。 昭和23(1948)年10月1日制定。』だそうです。
マンホール蓋にデザインされている熊野筆(経済産業大臣指定伝統的工芸品)についてはWikipediaに掲載がありますので、そちらを見ていただくことにして。
ここでは、熊野町の資料(を参照して)にあった熊野筆のはじまりについてを取り上げました。
『熊野の人々は、その昔、農業で主に生計を立てていましたが、小さな盆地で農地が狭まく生計の足しに、農閑期に奈良県(吉野地方)、和歌山県(紀州地方)に出稼ぎに行く人が多くいました。そこで得たお金で、奈良地方で筆や墨を買い入れて、それを途中の町や村で売りながら熊野に帰ってきていました。
このようなことがくり返されているうちに、
天保5(1834)年佐々木為次(ためじ)という若者が、兵庫県(摂津の国)有馬に行き、そこで4年間筆づくりを学び、天保9(1838)年熊野に帰ってきました。また、弘化3(1846)年井上治平(じへい)という若者は浅野藩(広島)につかえる筆司から筆づくりを学びました。さらに同じころ、乙丸常太(おとまる・つねた)という若者も兵庫県有馬で筆づくりを学び熊野に帰ってきました。
村に帰った彼らは、熱心に村人に教えました。彼らの熱心さと、村人の努力によって筆づくりは、熊野で広がって行きました。』ということだそうです。
「広島新四国88ヵ所霊場」編を2008年編集して以来まだ満願とはなっていません。そこで今(2018年)回まだお参りしていないここ熊野町の法念寺を巡礼したのです。
今回は法念寺だけをお参りする予定で、近くの熊野町役場出張所に留めました。駐車場とお寺の間の身近な間でみたのがここで取り上げたマンホール蓋でした。
 
 18.04.21.裕・記編集

18.03.24.撮影

18.03.24.撮影
広島県安芸郡熊野町神田でみたマンホール蓋(縁が違っていました))



「マンホール蓋」編 広島ぶらり散歩へ


inserted by FC2 system