千切大師堂

  広島市南区比治山本町の京橋川緑地帯にお堂が建てられている「千切大師堂」です。
今から300年くらい前の江戸期、今の大師堂が建つあたりに刑場があって、ここで罪業に身を滅ばした千余人の罪人が首をはねられて果てたといいます。しかし重罪人でも死ねば仏のもとに抱き取れられた魂。その霊を慰めようと大師堂をまつったのが始まりと云われています。
ところが、昭和20(1945)年8月6日、原爆の猛火は、このお堂をひとのみにしました。
この時大師堂がどうなったか定かではありません。その後、お堂は昭和24(1949)年にようやく再建され、近くの真言宗多聞院の当時の第18世亀尾宥賢住職(故人)のお世話で、弘法大師像を勧請して本尊に据えました。
こうして像そのものは代わりましたが、千切大師の尊像名は、そのまま引継がれました。罪人の滅罪成仏を発願とする千切大師は、この由来を逆縁に今日も多くの方々が縁を結びに来られています。
資料:お堂に備付けられている縁起書を参考にしました
このお堂にお参りに来られる人達の大多数が御年配の方々ですが、なかには、高校生とか若い人達も見受けられます。例えば学校の行き帰りに、このお堂の前を通るので欠かさずおまいりする女子高生もいるという事です。
広島在住の方はもちろん、県外からもおまいりに来られるほど、このお堂の千切大師様及び不動明王様には霊験あらたかなるものがあるようです。
現在のお堂を御世話されているのは西岡さんと云うお方で、27年くらい前から親子二代にわたって御奉仕されているという事です。本当に有難いことです。お堂のあいている時間は毎日、午前4時から午後9時までで、雨の日も風の日も年中変わりません。何はともあれ、ここにおまいりに来られる方々の「悩み事」「相談事」「祈願」等を一身に引受けてくださる千切大師様及び不動明王様に感謝の心でもって「御縁」「御加護」をいただきましょう。
2004年交流ウォークで案内していただき知ったこの千切大師堂でした。
2008年お大師様像を撮影しましたので画像を追加しました。
コロナ禍の2021年に撮影しましたのでこの頁を更新しようとしました。その時2006年お堂の中に貼り出されていた昔の千切大師堂の写真も改めてみるとあまり考えずに記述したことは誤りだったとお詫びしなくてはならない記述でした(下段)。
2023年お参りし撮影しました。
24.01.06.更新    04.06.13裕編集
   関連頁:(旧山手川の河原も刑場であったそうで現在キリシタン殉教之碑が建立されています。
2004年・2008年撮影
2004年交流ウォークの時この千切大師堂を教わりましたが、邪魔が入りろくに撮影できなかったので、そのあと独りで何度かお参りしご本尊(大師像)などを撮影しました。 

04.06.12撮影

06.08.06撮影
広島市南区比治山本町1-20 京橋川緑地帯

04.07.10撮影

08.03.15撮影
「比治山下の千切大師」
2021年撮影
(横着してお参りもせず)電車通り越に撮影しました。

21.08.11.撮影
(手前:広電宇品線越に)お堂をみました

21.08.11.撮影

21.08.11.撮影
(現在もお堂は、信心深いみなさんによって管理されているようです)
2023年撮影
今(2023年)回はお参りしてから撮影しました。〔前(2021年)回は不信心でしたので〕

23.03.13.撮影
広島市南区比治山本町1-20 京橋川緑地帯

23.03.13.撮影

23.03.13.撮影
温和なご尊顔

23.03.13.撮影
(斜め前からお堂を撮影)

23.03.13.撮影
(斜め(斜め前からお堂を撮影)後からお堂を撮影)
(再興された)千切大師堂
この写真を撮影しこの頁に掲載した時、『再興当時(昭和24年)の写真と思われます。』とあまり考えずに記述しました。
しかし、今(2022年)回この頁を更新する時、改めてよく見ると、大師堂後ろを流れる京橋川上流に東広島橋が写っていることに気が付いたのです。
東広島橋の頁も編集しているわたしは戦後すぐの昭和24年にはまだ架橋されていない橋だと思ったのです。
東広島橋が架橋されたのは昭和34(1959)年ですので、それ以降に撮影された写真だったのではないかと改めて推測し、お詫びしながらこの文章を書きました。

04.06.12撮影
お堂の中に展示されている(昔の)千切大師堂の写真



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