広島ぶらり散歩「頼山陽関連」編・一覧

  ここでは、わたしがみてきた頼山陽関連の碑や建物などを取り上げました。
頼 山陽 (らい さんよう 1780-1832)
江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人・書家。大坂江戸掘出身。名は襄(のぼる)、字は子成、通称は久太郎(ひさたろう)、別号を三十六峰外史。春水(儒学者:1746-1816)の長男。
6歳まではおおむね大坂で育ち、以後広島に移ったが父はほとんど江戸詰で不在でした。
1797(寛政9)年叔父・杏坪に従い江戸に出て尾藤二洲(儒学者:1745-1814)らに学ぶも、性豪放にして遊蕩に日を送る。
1800(寛政12)年脱藩し直ちに京都から連れ戻された後は、自邸内に監禁。1805(文化2)年赦免。
1811(文化8)年上京。書斎「山紫水明處」を営み、各地を遊歴、文人墨客と交わり、すぐれた詩文や書を遺しました。
山陽の著書「日本外史」は幕末期における歴史観、尊攘派に大きな影響を与えたといわれています。他の著書は「日本政記」「日本楽府」「山陽詩鈔」などです。
2004年10月から2007年4月にかけて中國新聞に掲載された見延典子さん(1955-  )の新聞小説「頼山陽」を楽しみに読んでいたわたしは頼山陽の人間的魅力(のわずかでしょうが)感じることができたのです。
大坂出身で、京都で没した頼山陽ですが、広島ゆかりの人として欠くことができない人物と云うことで、頼山陽関連の頁として、山陽文徳殿、頼山陽居室(復元)などを編集してきましたが、一覧頁は関連項目が少ないので作っていませんでしたが、やはり必要だなと2009年のいまになりましたが編集しました。
17.07.08.更新  09.06.17裕・編集
(広島市)

07.04.05撮影

04.07.10撮影

07.04.04撮影

06.04.06撮影

08.03.03撮影
山陽文徳殿 (山陽文徳殿)
(1本目の)被爆ソメイヨシノ
(山陽文徳殿)-枯死-
(2本目の)被爆ソメイヨシノ
(山陽文徳殿)
被爆ソメイヨシノ満開
(山陽文徳殿)
枯死したクロマツ
16.03.30.再編集 16.03.29.再編集 16.03.30.再編集 16.03.29.再編集 16.03.31.再編集

08.03.03撮影

08.03.03撮影

04.06.12撮影

16.11.26.撮影
(山陽文徳殿)
立太子礼奉祝記念・碑
(山陽文徳殿)
鈴木七五郎頌徳碑
(京橋川緑地帯)
頼山陽詩碑
(猿猴橋北詰)
頼山陽詩板
16.03.31.再編集 16.04.01.編集 16.03.16.再編集 16.12.21.編集

04.12.11撮影

10.05.01撮影
(南区仁保)
頼山陽漢詩を詠んだ銀杏
(西区井口・龍神山)
頼山陽漢詩を詠んだ処
11.10.17更新 10.06.23編集

16.02.28.撮影

07.06.05撮影

05.12.17撮影

05.12.17撮影

15.03.21.撮影
(被爆した旧館)
山陽記念館(模型)
頼山陽史跡資料館 (頼山陽史跡資料館)
(復元)頼山陽居室
(頼山陽史跡資料館)
被爆樹木・クロガネモチ
(頼山陽史跡資料館)
頼山陽居室・襖絵
16.03.13.編集 16.03.15.再編集 11.02.16更新 16.03.13再.編集 16.03.15編集

07.06.05撮影

16.02.28.撮影

12.01.14.撮影

04.08.27撮影
(頼山陽史跡資料館)
旧山陽記念館の手摺
(頼山陽史跡資料館)
頼山陽先生像
(才蔵寺)
山陽外史筆:扁額
(番外)
頼山陽煎餅
11.06.24更新 16.03.15編集 14.12.13.編集 04.09.01編集

08.03.03撮影

08.03.03撮影

08.03.03撮影

08.03.03撮影

08.05.15撮影
(多聞院)
頼家一族のお墓
(頼山陽の父)
頼春水の墓
(頼山陽の母)
頼静子の墓
(頼山陽の長子)
頼聿庵の墓
(頼山陽の叔父)
頼杏坪の墓
08.03.18更新 08.08.11編集 08.06.12編集 08.06.18編集 08.06.18編集

11.01.25撮影

10.02.19撮影
(頼春水撰)
石水盤石燈籠銘・碑
(頼杏坪撰といわれる)
定用水碑
11.02.28編集 10.03.13編集
(竹原市)
(頼山陽と竹原との関係)                              ※資料は竹原市・観光文化室の資料を参考にしました。
1. 1781(天明元)年2歳の山陽は、両親につれられて竹原に帰り、祖父の惟清より「忠孝」の守袋を与えられる。
2. 1794(寛政6)年15歳、5月27日叔父・杏坪に伴われて竹原に帰り10月12日まで約半年間、竹原に滞在し、附近の景勝地をまわり、高崎の薬師寺に詣でる。
3. 1797(寛政9)年18歳、3月12日叔父・杏坪に伴われ江戸遊学の途中、竹原に寄り、16日雨の為陸路忠海より尾道に向かう。
4. 1805(文化2)年26歳、7月24日父・春水に伴われ、権次郎(従弟)お十(妹)と一緒に竹原を訪れ、約1ヶ月滞在し、その間薬師寺、大福寺に詣でる。
5. 1814(文化11)年35歳、当時京都で塾を開いていた山陽は、初めての帰省の途中、竹原に立ち寄り、三日間滞在して8月21日広島へ帰る。又、広島から帰京の途中、10月13日春風館に立ち寄り海路尾道へ向かう。
6. 1819(文政2)年40歳、1年にわたる九州の旅より広島に帰った山陽は、母(ばいし)を伴って帰京の途につき、途中竹原へ立ち寄り、伯父・春風に会い、2月26日夜船で尾道へ向う。
7. 1824(文政7)年45歳、母(ばいし)が2月より上京していたので、10月24日母を広島へ送る途中、竹原へ立ち寄る、その時の詩(頼惟清宅裏庭に建立の詩碑)を詠んだ。

09.06.30撮影

09.06.30撮影

09.06.30撮影

09.06.30撮影
(竹原市)
頼山陽像
(竹原市・頼山陽詩碑)
不識庵機山を撃つの図に題す
(竹原市・頼山陽詩板)
朝日山
(竹原市・頼惟清旧宅)
頼山陽詩碑
09.09.06編集 09.09.07編集 09.09.31編集 09.09.25編集

09.06.30撮影

09.06.30撮影

09.06.30撮影
(竹原市)
頼惟清旧宅
(竹原市)
復古館
(竹原市)
春風館
09.09.24編集 09.09.27編集 09.05.31編集
(三次市)

08.07.03撮影
(三次市)
頼杏坪役宅(運甓居)
08.07.29編集
(福山市・神辺)
(頼山陽と神辺の関係)                        ※資料は菅茶山記念館の資料を参考にしました。 
  神辺の廉塾(れんじゅく)は、1781(天明元)年頃に菅茶山が開いた塾です。
頼山陽は、1810(文化7)年12月29日広島から神辺に着き、1811(文化8)年2月6日神辺をあとに上京するまでの間、廉塾の都講(塾頭)でした。
茶山は姪と結婚させ夫婦養子にし、福山藩へ仕えさせようとしましたが、頼山陽は京への思いが強く、1年2ヶ月と短期間ではありました神辺に滞在しました。

09.10.12撮影

09.10.12撮影
(福山市・神辺町)
山陽が塾頭だった・廉塾
(福山市・神辺町)
師・菅茶山之墓
10.06.02裕編集 10.06.03編集
(尾道市)
(頼山陽と尾道の関係) 
  尾道には橋本竹下(豪商:1790-1862)、宮原節庵(儒者:1806-1885)、平田玉蘊(女流画家:1787-1855)らの門人がおり、山陽道の宿場町として、また瀬戸内海航路の港町として繁栄していた尾道には、経済的に豊かになった商人のなかで、文芸への関心が高まり、多くの文人墨客が立寄り、彼らは、商人たちの求めに応じて、多くの書や絵画を制作することで、潤筆料を受取っていました。
頼山陽に限らず、この時代、学者や文人が職業として成り立つようになった経済的背景には、尾道のような地方の豪商や豪農の存在があったからと考えられています。

11.03.04撮影

11.03.04撮影

11.03.04撮影

11.03.04撮影
(尾道市・文学のこみち)
頼山陽之像
(尾道市・文学のこみち)
頼山陽・詩碑
(尾道東高校)
頼山陽遺墨
(浄泉寺・水盤)
頼山陽筆
11.03.01編集 11.04.23編集 11.05.12編集 11.05.19編集

11.03.04撮影

11.03.04撮影
(尾道市)
菅茶山・詩碑
(尾道市)
田能村竹田之像
11.04.01編集 11.03.17編集
(呉市) 

17.06.17.撮影

17.06.17.撮影
(呉市広)
広邑新墾碑
(呉市広)
頼山陽文学碑
17.07.08.編集 17.07.02.編集
(呉市・倉橋)

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影
(倉橋歴史民俗資料館展示)
頼山陽の筆跡
(倉橋歴史民俗資料館展示)
頼春水の筆跡
(倉橋歴史民俗資料館展示)
頼杏坪の筆跡
(倉橋歴史民俗資料館展示)
頼春風の筆跡
(倉橋歴史民俗資料館展示)
頼聿庵の筆跡
11.11.27編集 11.11.27編集 11.11.27編集 11.11.27編集 11.11.27編集



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