(被爆した建物)山陽文徳殿

  南区比治山町の(現在利用されていない)被爆建物「山陽文徳殿」です。
※頼山陽の文徳(≒学問を修めることによって身にそなわる人格)を偲んで建設された建物です。
※建物の名称は(頼山陽文徳殿ではなく)「山陽文徳殿」と扁額(下に掲載)に刻まれています。
山陽文徳殿は、頼山陽(1780-1832)の没後「100年祭」を記念し頼山陽の徳を偲んで広島市が計画し建てられました。
1931(昭和6)年頼山陽没後「100年祭」昭和産業博覧会(1929年)の余剰金の一部と頼山陽文徳殿建設翼賛会の寄付金で建設されました。
1934(昭和9)年10月竣工、鉄筋コンクリート造平屋、132u。屋根は瓦葺。
和様建築で、屋根は(寺院風に)九輪の塔をいただき、外壁には柱なし、漆喰仕上げで壁面は(羽目板風に)角出しをしており、腰壁は校倉造りのイメージの仕上げとなっています。玄関の左右対称の袖は中国の廟の造りを取り入れているといわれているようです。
被爆当時の名称   山陽文徳殿
(爆心地から1,820m)
この建物は1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。
なお、爆風で変形した屋根の飾り(九輪)は当時のままです。
被爆当時町名:段原町
原爆で、窓硝子が破れ、屋根瓦が吹き飛びましたが、焼失はまぬがれました。
建物は市役所「戸籍選挙課分室」となっており戸籍課の多くの職員が負傷、8月8日一人が死亡したそうです。
戦局が悪化で、広島市役所の出先機関「戸籍選挙課分室」が置かれ、戸籍原簿の大部分を疎開させた。
1945(昭和20)年8月6日原爆により多数の負傷者を出し、8月8日1人が死亡。
被爆後、1945(昭和20)年8月15日から職員3人による戸籍業務を再開、死亡届の処理は混乱。
応急修理後、1946(昭和21)年10月から1949(昭和24)年6月まで市立浅野図書館として使用される。
1953(昭和28)年10月から1955(昭和30)年2月まで臨時の浅野図書館となる。
その後は市の社会教育施設となりましたが利用者の減少で、1964(昭和39)年建物を閉鎖、現在利用されていません。
比治山公園に来たとき山陽文徳殿があることは道路から見える標識で以前から知ってはいましたが、
2004年交流ウォークのときはじめて階段を上って建物の近くまで行きました。
2005年資料を見てこの山陽文徳殿の玄関前に被爆樹木ソメイヨシノがあることを知り撮影に行きました。その時(2004年には設置されていなかった)「被爆建物」プレートが設置されていました。
2007年見た時屋根の錆の面積が大きくなってきたように思いました。
2016年被爆したソメイヨシノを見ようとしたとき、その衰えぶりが気になったのです(被爆樹木の頁を更新しました)。
その樹勢の衰えで建物が以前に比べ、見えるようになっていましたので撮影しました。
屋根も水切りが取り換えられ、カラーベスト葺替えが施されたようでした。
この頁掲載画像を見直し、2016年撮影画像を加え頁を再編集しました。
16.03.30.再編集    04.07.18裕・記編集

04.07.10.撮影
 広島市南区比治山町7−1

04.07.10.撮影
羽目板風に角出外壁  と  被爆した桜(の幹)

04.07.10.撮影
  館名扁額「殿徳文陽山」

04.07.10.撮影
相輪は、被爆時の衝撃(爆風)で歪んだといわれています
くりん
九輪
寺院の塔の頂上を飾る相輪の部分の名。露盤上の請花(うけばな)と水煙との間にある九つの金属製の輪。宝輪。空輪。
そうりん
相輪
仏塔の最上部にある装飾部分。下から露盤・伏鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪・水煙・竜舎・宝珠の七つから成る。相輪全体を九輪と称することもある。青銅製・鉄製・石製などがある。

05.11.03.撮影
玄関横に「被曝建物」のプレートが設置されていました

07.07.05.撮影

07.07.05.撮影
(2005年に比べ  )屋根の水切りからの錆が大きくなっているようでした

16.03.27.撮影
(被爆した桜が弱ってきているようで)建物が見えるようになっていました

16.03.27.撮影
屋根が(カラーベスト葺)改修されていました

16.03.27.撮影

16.03.27.撮影
内部 (山陽文徳殿建設翼賛会会長光本規伏の額が置いてあります)   





「被爆した建物・構築物」編



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山陽文徳殿
  被爆樹木・ソメイヨシノ
    (開花時の)ソメイヨシノ
  (2本目の)被爆ソメイヨシノ
  枯死した・比治山のクロマツ
  立太子礼奉祝記念・碑
  鈴木七五郎頌徳碑


「頼山陽関連」編


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