放射線影響研究所(旧ABCC)

  南区比治山公園に設置されている「放射線影響研究所」です。
放射線影響研究所は、広島には広島市南区比治山公園 5-2にあり、長崎には長崎市中川1-8-6にあります。
ここでは、広島市に設置されている放射線影響研究所(旧ABCC)を取り上げました。
1946(昭和21)年、広島・長崎の被爆者における放射線の医学的・生物学的晩発影響の長期的調査を米国学士院-学術会議(NAS-NRC)が行うべきであるとする トルーマン米国大統領(在任:1945年4月12日–1953年1月20日)令を受けて、1947(昭和22)年原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島・長崎両市に設立されました。
当初、運営資金は米国原子力委員会(AEC)が提供していましたが、その後、米国公衆衛生総局、国立がん研究所、国立心臓・肺研究所からも資金提供があり、米国の一方的な占領政策でした。
1948(昭和23)年日本国の厚生省、国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加したものの、
1951(昭和26)年、市内比治山に移り本格的な施設は整いましたが、広島市民からは「研究、調査するだけで治療行為をしない」と、その活動方針を批判する声がありました。
1975(昭和50)年4月に日米対等で管理・運営され発足した財団法人放射線影響研究所(RERF)として改組されました。(が、その前身がABCCです。)
原爆傷害調査委員会 ABCC=Atomic Bomb Casualty Commission
放射線影響研究所 RERF=Radiation Effects Research Foundation
(放影研の)設立目的と研究調査             (公財)放射線影響研究所
放射線影響研究所(以下「放影研」)は、1947(昭和22)年に米国学士院により設立された原爆傷害調査委員会(ABCC)を前身とし、1975(昭和50)年に日米両国政府の合意により設立された公益財団法人です。
設立の目的は、平和的目的の下に、放射線の人に及ぼす医学的影響及びこれによる疾病を調査研究し、原子爆弾の被爆者の健康保持及び福祉に貢献すると共に、人類の保健の向上に寄与することです。
放影研の重要な研究テーマは、被爆者の受けた放射線量の評価と放射線の人体の健康への影響を分析です。
寿命調査(約12万人)では癌の発生や死亡の原因となった病気への影響を調査し、成人健康調査(約2万5千人)では健康診断を継続的に行っています。
また、被爆者の子どもたちについても同様な調査を行い、親の放射能被爆による遺伝的影響があるかどうかを調べています。
放影研の調査結果は科学雑誌に公表され、放射線リスクや放射線から人の健康を守る国際基準の主要な科学的根拠とされています。
現状: 敷地面積 22,717㎡  
建物 鉄筋コンクリート2階建12棟及び付属構造物 延べ9,681㎡
2001年はじめて撮影し、2004年交流ウォーク時に撮影して、「無知からはじめた豆知識集」に旧ABCCを掲載しましたが、独立した頁では編集していませんでした。
2015年久しぶりに訪ねた時、公益財団法人になったからか、(上記)「設立目的と研究調査」を日本語、英語で紹介した説明板が設置されていましたので、撮影しましたので、この頁を編集しました。
前文にも書いていますが、広島市民からは「研究、調査するだけで治療行為をしない」と、その活動方針を批判する声がある事を忘れてはなりません。
放影研とは直接関係ありませんが、2本あったアンテナ塔が1本になった事も時の経過を思いながら撮影しました。
(2015年9月)先日TVニュースをみていたら『建物の老朽化などで移転、建替の問題が起きているようです。』
2016年3月新聞報道で、次のようなことを知りました。
『日米共同研究機関「放射線影響研究所」(広島・長崎両市)の丹羽太貫理事長は2016年3月4日日、広島研究所について「移転はどうしてもやりたい問題」と述べ、放影研の存続と移転実現に被爆者や市民の理解を求める取り組みを進めていく考えを明らかにした。』
今(2017)年1月24日新聞などの報道で、次のようなことを知りました。
『放射線影響研究所の移転問題で、 丹羽太貫理事長は1月23日、広島市が提案した市総合健康センター(中区)への移転入居案の 検討を内部で進めていると明らかにした。』
旧ABCCの頁を編集するとき、ABCCが設置されたころの写真も掲載しようと、平和記念資料館を見学した時に設置パネルを撮影していたのですが、整理不足でわからなくなっていましたが、2017年になりましたが見つかりましたので、今回掲載しました。
また、放射研の移転が見えてきたような報道に接しましたので、それを加筆しました。
広島市は被爆70周年をむかえ、被爆100周年に向け、比治山公園「平和の丘」構想を策定しています。
そのなかで、広島市博物館を現在の放射線影響研究所跡地にと考えていることから移転を進めようとしています。
2017年6月20日新聞報道などで
『放影研理事長:被爆者に公の場で初めて謝罪』したことの報道です。。
『原爆による放射線被爆の影響を追跡調査している日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研、広島・長崎両市)の丹羽太貫(おおつら)理事長(73)は6月19日被爆者を招いて広島市で開いた設立70周年記念式典で、前身の米原爆傷害調査委員会(ABCC)が被爆者を研究対象として扱ったことについて、「心苦しく残念に思っている」と謝罪した。放影研トップが公の場で直接謝罪するのは初めてとみられる。
この式典には被爆者や放影研職員ら約300人が出席した。
丹羽理事長は冒頭あいさつで「ABCC設立当初は“調査すれども治療せず”と多くの批判があった。重く受け止め、心苦しく残念に思っている」と謝罪。「そうした状況下でも、被爆者と被爆2世の皆様から継続的な協力をいただいてきた。深く感謝します。」と述べた。
 母親が検査で2度連れて行かれたという広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の佐久間邦彦理事長(72)は「放影研とABCCは一体なのにまるで人ごとの言い方だ。謝罪とは受け取れない」といい、「人権を無視したのは事実。誤ったことをしたと被爆者の前で明言すべきだった」と批判した。
 理事長が謝罪すると聞いて訪れた被爆者の岡田恵美子さん(80:東区在住)は「言葉だけの謝罪で、過去の事実の重さに向き合っていない」と残念がった。
 もう一つの県被団協の坪井直理事長(92)は「被爆者は戦後、“助かりたい、生きたい、何とか助けてもらおう”との気持ちだった。だが、放影研(ABCC)も治療をどうしたらいいか分からなかった」といい、両者に認識の違いがあったと指摘した。』というような内容でした。
ラジオの報道などで、放影研理事長が謝るだろうというニュースを事前に聞いていましたので、新聞報道を注視していました。
被爆者などからの批判には誰のためのABCCであったのかの反省があってこその謝罪だという思いが色濃く反映した感想だったように思うのです。
原爆を投下した米国のための放射線影響の調査であり、被爆者に寄り添った機関ではなかったことに言及しなくては謝罪にはならないというのが多くの今を生きる被爆者の思いなのではと(わたしは)思いながら記事を読みました。
17.06.20.更新    15.09.20.裕・紀編集

13.04.04.通称・原爆資料館展示パネルを撮影
  (通称・原爆資料館展示パネル)   ABCC(The ABCC)の設置
原爆の人体への影響を長期的に調べるため、1947(昭和22)年にABCC(原爆傷害調査委員会)が広島・長崎両市に設けられました。
1951(昭和26)年市内比治山の高台に移り本格的な施設が整いましたが、市民からは「研究、調査するだけで治療行為をしない」とその活動方針を批判する声もありました。
1975(昭和50)年に日米対等で管理・運営されることになり、(財)放射線研究所(RERF)として改組されました。

01.12.25.撮影
広島市南区比治山公園 5-2

04.07.10.撮影

15.09.05.撮影

15.09.05.撮影
2004年撮影時、2本あった鉄塔(の内アナログ教育テレビ用鉄塔が2012年3月撤去)FM放送用の1本となっています

15.09.05.撮影



「建物など」編



広島ぶらり散歩
比治山公園(概説)


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