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中区袋町の頼山陽史跡資料館前庭に展示されている「被爆した旧・山陽記念館手摺」です。 |
山陽記念館は、1935(昭和10)年に建設されましたが、被爆によって大破しました。
1995(平成7)年に頼山陽史跡資料館として建て替え、整備されました。
これは、山陽記念館のバルコニーの手すりで、被爆の状況を示す資料として一部を切り取り保存したものです。材質はテラコッタ(装飾用の素焼き陶器)で、当時の建築様式の特徴をうかがうことができます。 |
山陽記念館は、爆心地より≒400m (被爆当時の町名も袋町) |
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官民合同で1929(昭和4)年末に頼山陽先生遺蹟顕彰会が設立されました。
顕彰会は、1931(昭和6)年に没後百年祭典を実施し、1934(昭和9)年(頼山陽が脱藩後に幽居され「日本外史」を執筆した)居室を取得して修築保存を行いました。1935(昭和10)年12月最後の事業として寄付金を募り頼家屋敷跡に遺物資料を展示、山陽の偉業を伝えるための山陽記念館を建設しました。
設計は佐藤功一(広島赤十字病院の設計者でもあった)、鉄筋コンクリート造、2階建、意匠は和風(木造風)な仕上げとなるように(陸屋根ではなく)傾斜をつけ瓦葺になっていました。1945(昭和20)年8月6日被爆したとき西隣の日銀広島支店の陰になり、爆風は軽減されましたが、屋根スラブは部分的につぶされ屋根瓦は破壊され内部は全焼、(木造であった)居室も焼失しました。顕彰会は、1949(昭和24)年残った躯体を使用して補修し翌(1950)年広島県に寄贈しました。建物は県社会福祉協議会、県埋蔵文化財調査センター、顕彰会などが使用しましたが、老朽化で1994(平成6)年解体され、1995(平成7)年頼山陽史跡資料館が新築されました。 |
旧山陽記念館の手摺が残されていることを知り(正門から入って右手に展示されている手摺の部材を)撮影しました。
2010年になって、正門から入ったすぐの左手に展示されている被爆した手摺と思っていままで見てきていたのですが、全く形状が違っている事に気が付きました、何と節穴をした観察眼だったのかとおもい撮影していました。今になりましたが、追加しました。 |
11.06.24更新 07.11.10裕・記編集 |