旧燃料会館・地下室
(平和記念公園レストハウス地下室)
  現在、中区中島町の平和記念公園に残されている無料休憩所などに利用されている「(平和記念公園)レストハウスの地下室」です。
※1945(昭和20)年8月6日被爆当時は“燃料配給統制組合”が利用していました。
※2020年7月レストハウス改築後、一般公開されましたので誰もが見学できるようになりました。
*表題を“旧燃料会館・地下室”としていますが、一般公開されていますので「平和記念公園レストハウス地下室」とするのがいいのかなと思いましたので()で記述しました。
この県燃料配給統制組合になっていた建物では、被爆当時37名が勤務、8名が負傷しなからも脱出されたがこの地下室に書類を取りにきて被爆された男性以外は数年後には亡くなりました。
被爆時47歳で84歳で他界された野村英三(1898-1982)さんの手記・原爆の絵が色々なところで紹介されています。
1929(昭和4)年 大正屋呉服店としてRC造3階・地下1階として建てられました。
1944(昭和19)年 県燃料配給統制組合に買収されました。
1982(昭和57)年〜 レストハウスとして使用されています。
レストハウス地下1階は今回のリニュアル工事で、
(爆心地から≒170mの)建物内で唯一の生存者であった野村英三さんの手記や被爆当時の様子を描いた絵、被爆直後の燃料会館の写真などが展示されています。
2020年7月から見学できる(バリアフリー)施設として、新たに床を設置し、室内の段差が無いように改修されています。(部分的に当時の床面が残されていますが。)  
地下室は、1929(昭和4)年の(大正呉服店)建物竣工時には、食堂等などが設置されていたと図面で記録されています。
被爆当時は、(県燃料配給統制組合職員の)野村英三さんの残した手記から、書庫であったと考えられます。現在の保存されている状況から、床、壁、柱は数回改修が行われているようですが、その時期については、記録が残っていません。
2004(平成16)年交流ウォークではじめてレストハウスの地階に入ることができました。59年前に起こった悲惨な出来事を少しでも感じ捉えることができればと思ったのです。
今(2005)年は、被爆60年のその日に当たる8月6日に交流ウォークで立ち入ることができました、語りかけてくることなどない無機物の建物、感性を研ぎ澄まし声なき声を聞かなければと思いながらも、できない自分自身がいました。
コロナ禍の2020年7月レストハウスは、リニュアル後再オープンしましたが、臨時休館などで閑散とした平和記念公園になっています。改修後一般公開された地下室を撮影していましたので、更新しました。
2020年撮影画像だけでは、地階の保存状況がわからないと思い2021年別角度から撮影した画像を加えこの頁を更新しました。
22.10.08.更新   04.06.16裕・記編集
改修工事前(被爆当時の残り香があった時代)

04.08.07撮影
広島市中区中島町1 (現・広島市平和記念公園レストハウス地下室)

04.08.07撮影

04.08.07撮影

05.08.06撮影
2005年は雑誌記者が交流ウォークに同行していました
(明り取りのドライエリアの窓部分)
 
改修後(一般公開されました)

20.10.16.撮影
 (改修され、唯一の生存者だった野村さんの手記などが展示されました)

20.10.16.撮影
地下室の明り取りとしてドライエリアの(改修後の)サッシュ

20.10.16.撮影
1929(昭和4)年竣工時の地下1階平面図

21.10.07.撮影
改修され見学用に増築された部分を含む地下1階平面図

21.10.07.撮影
見学用には改修されていない床・柱部分を囲ってあります

21.10.07.撮影

21.10.07.撮影
地下1階から1階への階段をみました

21.10.07.撮影
(階段は見学では利用できませんので)1階から地階をみました



被爆した建物・構築物」編



広島ぶらり散歩へ
広島市平和記念公園レストハウス
  (2階展示)明子さんの被爆ピアノ
旧燃料会館地下室
燃料会館・原爆被災説明板
野村英三さん「爆心に生き残る」の原稿


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