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中区寺町の本願寺広島別院境内に建立されている「表忠塔」です。 |
正面: |
表忠塔 龍谷枝子積徳院書 |
裏面: |
明治三十七・八(1904・1905)年戰役ニ出征シ戰地ニ傷病ヲ得テ當地豫備病院ニ歿セラシタル竹中陸軍少将以下二千百七十九(2179)名ノ香骨ヲ納安シ永ク殉國ノ誠忠ヲ追慕センカ為メニ本塔ヲ建設ス 大正七(1918)年四月 輪番 真宗司教凌雲識 |
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*碑文にある予備病院は、後の広島陸軍病院で、ここ別院の川向う(本川対岸)に位置していました。 |
※真宗学階は、「得業」「助教」「輔教」「司教」「勧学」の五段階 |
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-明治37・8年戦役(=日露戦争:にちろせんそう)- |
1904(明治37)年2月から1905年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。
ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米国大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。 |
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-広島陸軍病院- |
当初、広島鎮台病院として設置され、陸軍予備病院、広島衛戍病院、広島陸軍病院と名前を変えました。
太平洋戦争中は、基町地区だけで、4000床以上の収容力があったそうです。 |
※衛戍≒軍隊が常時駐屯して警備すること。 衛戍病院≒旧陸軍で衛戍地に設けていた病院。 |
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大正7(1918)年建立の石碑ですので広島別院の境内で被爆したものでしょう・・被爆したソテツを撮影しようとしたときに鐘楼の南側にこの碑をみました。
2004年撮影して、この頁を編集しました。 |
2015年久しぶりに訪ねましたので、撮影しました。揮毫者、碑文の作者など見直し、今回この頁を再編集しました。 |
15.06.25.再編集 04.11.22裕・編集 |