光福寺

  中区寺町に建てられている「嶽扇山・光福寺」です。
光福寺は、浄土真宗本願寺派のお寺です。
知新集
によると
『往古は加茂郡志和堀村にあり真言宗のお寺でありましたが、一説には禅宗とも云われ縁起は詳らかではありません。
高田郡井原村にも、沼田郡西原村にも光福寺屋敷がありますが、志和掘村中ころ井原村後西原村から当地へ引っ越したものと考えられます。
山号は無量山とも唱えていましたが正徳年中(1711-1716)より嶽扇山と定めたのは志和村扇山の名前を用いて出所を忘れないためのものです。・・・・』
と記しています。
資料に、光福寺の被爆した墓石が記載してありましたので、そっと撮影しました。
みて歩けばまだまだあるのでしょうが、縁つながりの方がいるわけではありませんのでやめました。
爆心地から≒1070m  (被爆当時町名も寺町)
境内に建つ「アショカピラー」。無縁となった原爆犠牲者を供養するということで建立されたそうです。
資料で墓石などが被爆したものとして紹介がありましたので、2006年9月撮影しました。
09.02.01更新    04.10.10裕記・編集

04.09.18.撮影
広島市中区寺町4-33  (西側御門)

06.09.15.撮影
本堂

06.09.15.撮影

06.09.15.撮影

06.09.15.撮影
墓苑の中には被爆したお墓も 萬延二年辛酉二月七日※ 被爆の影響?ひび割れ
※萬延二年は西暦では1861年、2月19日に改元で文久元年になっています。
このお墓は年代からも墓石の状況からも被爆しています。

04.09.18.撮影

04.09.18.撮影
光福寺境内に建つ「アショカピラー(アショカ王柱頭)」。(東西南北を向く赤茶色の四頭の獅子)   
pillar [pilr] n. 柱(状物)、 記念柱、 柱石、 重鎮
アショーカ王(在位 紀元前268−232ごろ)
インド、マガダ国の王でマウリヤ朝の第三代の王。
紀元前三世紀頃、初めてインドを統一。仏教に帰依、法(ダルマ)を統治の理想とし、それを各地の磨崖碑や石柱碑に刻んだ。
仏典の第三回結集(けつじゆう)を行なったと伝えられ、理想の帝王とされる。アシュカ。阿育(あいく)王。生没年未詳。



広島の神社仏閣」編


被爆した建物・構築物」編



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光福寺
(境内の)手押しポンプ


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