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西区横川町の広島信用金庫横川支店2階に残されている「三篠信用組合の正面を飾っていた“アイオニック柱範”」です。 |
1938(昭和13)年5月、三篠信用組合本店として鉄筋コンクリート2階建、地下1階、古典様式(ギリシャ建築様式)を取り入れた建物として完成。
1945(昭和20)年5月三篠信用組合をはじめ、広陵、広島第一、共立、共済、広石、昭和、牛田、白島の九信用組合が合併して広島市信用組合が発足しここが本部となったそうです。 |
1945(昭和20)年8月6日原爆により組合長と役員6名、職員42名の方々が犠牲になり焼失したそうです。
この建物は原爆に耐え、7日早朝には被災者の救護所(賀茂海軍衛生学校の救援隊約70名による)になり、また西警察署の仮庁舎(9月1日〜翌年6月)としても利用されたと聞きます。 |
爆心地より≒1700m (被爆当時町名も横川3丁目) |
建替えの為に1990(平成2)年9月解体されています。 |
2004年交流ウォークの時撮影しこの頁を編集しました。
被爆建物だから保存して後世に伝えていく意義はあろうとも、自由経済活動ではその思いを押し通すことはできませんし、建物としての耐用年数というものもあり解体され新しい建物に建替えられて行ったのでしょう。それでも経営陣にその悲惨でしかなかった体験者がおれば一部でも残さなくてはとなったのであろうと思いながら見学しました。
爆心地であった島病院の島薫院長は被爆当日、世羅郡甲山町に出張診療中でしたが、広島爆撃の報を聞き引返し、この広島市信用組合の2階に寝泊まりして、袋町国民学校で原爆被災者の治療に当たっておられたそうです。 |
05.04.28更新 04.10.31裕・記編集 |