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西区三篠町の三篠町三丁目集会所に建立されている「(道路布設)記念碑」です。 |
『この記念碑がある西側の国道54号線の敷地は、堤防敷きで高さが3mありました。この土砂を除去して現在の国道54号線が布設されました。
その記念に三篠三丁目の町内会館地内にこの記念碑が昭和9(1934)年11月に建立された。』そうです。 |
三篠公民館主催の)交流ウォークの時、地元の方でもこの碑文は読めないとの話があったのです。
今(2008)年、広島市教育委員会発行「広島の石碑」(1989)を見ていると建立の由来が、わかることが記述してあったのです。 |
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政府は、1920(大正9)年の「第一次道路改良計画」を実施し、道路改良政策を施していったが、1923(大正12)年の関東大震災発生により予算が大幅に縮小されました。
1934(昭和9)年から、先の道路改良計画を改定した「第二次道路改良計画」が実施されたそうですので、この記念碑の建立昭和9年と期を一にするものだなと思いましたが、碑文に工事竣工は昭和7(1932)年6月と刻まれていましたので時期が少し前でした。 |
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2008年2月19日そこ退けそこ退け自衛艦が通るということで漁船(清徳丸)を真っ二つにし、親子2人が行方不明になるという悲しい事件を見聞きしているこんにち、この記念碑に関する特記事項を読みながら庶民を犠牲にしてきた歴史の一端を(わたしは)この碑からも垣間見た思いがしました。それは、『旧藩政時代、広島城を護るということから太田川右岸の大芝付近は左岸(広島城側)より堤防を低く築いており、そのことから三篠町内では水越してくる流水を防ぐために堤防の内にまた堤防が造られていた』そうです。そんなことも知ることができるこの記念碑でした。 |
2010年画像処理のまずさで画像を差替えようとしたのですが、2004年撮影の画像はPCを壊したときに失ったようで、改めて撮影に行きました。
その時、碑文を何とか読めないかと思いましたが、わたしの国語力のなさで、部分的なものしか分かりませんでした。わたしにも理解出来たその中で道路を敷設するために(立退きからでしょうか)町有家屋建築等本工事完成・・・昭和七(1932)年六月(完工したので、町の発展が望める事であろうとこの碑を建立した)と記述されているようでした。 |
10.11.26更新 04.10.31裕記・編集 |