広島ぶらり散歩「赤穂義士関連」

  日本人は、忠臣蔵(赤穂浪士の敵討ちを主題とした、浄瑠璃・歌舞伎・実録本などの総称。普通は「仮名手本忠臣蔵」をいう)が好きと云われていますよね、わたしも子供のころからTV番組などで取り上げられた忠臣蔵を観てきました。
広島が浅野本家で赤穂・浅野、三次・浅野は分家の関係にあることから広島にも少なからぬ縁があるのです。
赤穂浪士の総師大石良雄の妻りくは里方の但馬豊岡藩京極家の臣・石束毎公(つねとも)のもとへ離縁の上帰り、離別当時妊娠していた三男を産み、父・良雄1703(元禄16)年刑死の時は三歳でした、外に2人の女児は罪を問われていません。二男・吉千代は刑死時十三歳、僧籍に入り修行中でした。
1709(宝永6)年正月将軍・徳川綱吉が死に、六代・家宣が継職の慶事大赦で遠島流罪執行中の児も幼年執行猶予中の児も罪を許されました。二男・吉千代は(法号・元快)は不幸にも19歳で病死。三男・大三郎こと大石良恭(よしやす)が、その母・りく(併せて大三郎の姉も)とともに広島藩に招かれたのが1713(正徳3)年12歳のときで、広島藩に仕え広島在住58年、その死は1770(明和7)年69歳のときでした。
明星院のことは(以前牛田に住んでいましたので)知っていましたが、原爆の惨禍をまぬがれた赤穂義士木工像があることは知りませんでした。また、円隆寺で赤穂義士・原惣右衛門夫婦のお墓を、三滝墓苑で大石内蔵助二女のお墓など教えていただき、それら編集してきました。そして、國泰寺に大石りく、大三郎の墓がある事を知り訪ね、三次市・鳳源寺に義士堂があることなどを知り、頁を編集しました。しかしまだまだ知らないことも多くあるでしょうから少しづつでも充実した頁にしたいと思っています。
この頁を編集しだして機会があったら、東京の泉岳寺に行ってみたいと思っていたのです。
2013年になりましたが、訪ね、淺野長矩の墓や大石内蔵助良雄の墓などを撮影しましたので、番外として加えました。
わたしの頁では、赤穂浪士、赤穂義士を混在しながら頁を編集しています。
言語的には、赤穂浅野藩が廃藩になって浪人になり、仇討を遂げ、各藩に預けられ切腹するまでは浪士であり、その後世間にその行動を賞賛されてからは赤穂義士と呼ばれるようになったのでしょうが、わたしの作成頁ではそのような厳密な使分けを意識して編集していませんのでよろしくお願いいたします。
13.12.08.更新   09.06.18裕・編集

13.09.15.撮影

13.09.15.撮影

13.09.15.撮影

13.09.15.撮影
〔番外〕(東京・泉岳寺)
淺野長矩の墓
〔番外〕(東京・泉岳寺)
瑤泉院の墓
〔番外〕(東京・泉岳寺)
大石内蔵助良雄の墓
〔番外〕(東京・泉岳寺)
原元辰(通称・惣右衛門)墓
 13.12.08.編集  13.12.08.編集  13.12.08.編集  13.12.08.編集

05.05.11撮影

08.03.22撮影

07.04.04撮影

09.04.07撮影
(東区・明星院)
赤穂義士木像
(西区・国泰寺)
赤穂義士追遠塔
(西区・国泰寺)
追遠塔建設記念碑
(三次市・鳳源寺)
義士堂
12.09.27.追記  08.04.02編集 08.04.03編集 09.04.17更新

06.01.21.撮影

08.03.22撮影

08.03.22撮影
(東区・聖光寺)
大石内蔵助父子供養墓
(西区・国泰寺)
大石りくの墓
(西区・国泰寺)
大石大三郎の墓
06.05.31編集 08.03.30編集 08.03.31編集

09.04.07撮影

12.05.29.撮影
(三次市・鳳源寺)
大石良雄手植の桜
(三次市布野・岡部台)
大石良雄手植えのしだれ桜二世
09.04.17編集 12.06.29編集

04.11.20撮影

08.03.31撮影

08.03.22撮影

08.01.19撮影
(西区・三滝墓苑)
浅野直道内室之墓
(中区・圓隆寺)
原惣右衛門夫婦の墓
(西区・国泰寺)
武林唯七祖父治庵之墓
(南区・西福寺)
治庵玄道大徳覺翁の墓
06.05.31再編集 11.08.30追記 08.05.04編集 08.04.06編集

09.04.07撮影

08.07.05撮影

09.04.07撮影

05.09.11撮影
(三次市・鳳源寺)
浅野長治像
(三次市・鳳源寺)
瑤泉院の遺髪塔
(三次市・鳳源寺)
瑤泉院像
(南区・源光院)
兵部卿の墓
09.04.19編集 09.02.15編集 09.04.20編集 06.05.31追記



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