広島と赤穂浪士の関係について

  赤穂浪士の総師・大石良雄(1659-1703)の妻・りく(1669-1736)は里方の但馬豊岡藩京極家の臣・石束毎公(つねとも)のもとへ離縁の上帰り、離別当時妊娠していた三男(大三郎:1702-1770)を産み、父・良雄1703(元禄16)年刑死の時は三歳でした。外に2人の女児(くう、るり)は罪を問われていません。二男・吉千代(1691-1709)は刑死時十三歳、僧籍に入り修行中でした。
1709(宝永6)年正月将軍・徳川綱吉(1646-1709)が死に、六代・家宣が継職の慶事大赦で遠島流罪執行中の児も幼年執行猶予中の児も罪を許されました。
二男・吉千代は(法号・元快)は不幸にも19歳で病死。
三男・大三郎こと大石良恭(よしやす)が、その母・りく(併せて大三郎の姉・るり)とともに広島藩に招かれたのが1713(正徳3)年12歳のときで、広島藩に仕え広島在住58年、その死は1770(明和7)年69歳のときでした。
ぎし
義士
1)節義をかたく守る人。義人。;a faithful retainer、(忠臣)loyals。
2)特に、赤穂義士のこと。
ろうし
浪士
主家を離れ、禄を失った武士。仕える主家をもたない武士。浪人。
文例:「赤穂浪士」
明星院に原爆の惨禍をまぬがれた赤穂義士木工像があります。
また交流ウォークに参加させていただき、円隆寺で赤穂義士・原惣右衛門夫婦のお墓を、三滝墓苑で大石内蔵助二女のお墓などなどを教えていただきました。
広島藩に残る赤穂浪士の残り香を調べていければと思っています。
※わたしの頁では、浪士、義士を混在しながら頁を編集していますが意図をもっては使用していませんので。
18.08.04.更新  07.01.27裕・記編集
1701(元禄14)年3月14日 浅野内匠頭は勅使接待役となったが、殿中で典礼指南の吉良義央(1641-1702)に切りつけ、即日、切腹・除封の処分を受けた。
1702(元禄15)年7月 幕府は、浅野内匠頭の実弟浅野大学の広島宗家永預けの処分を決めた。御家再興の望みはなくなる。
1702(元禄15)年12月14日夜 江戸本所松坂町の吉良上野介義央の邸を襲って、主君浅野内匠頭長矩の仇を報いた。
1703(元禄16)年2月4日 赤穂浪士46人(立ち退いた寺坂吉右衛門を除く)は、お預かりの大名屋敷で切腹した。
(あこうろうし)
赤穂浪士:
1702(元禄15)年12月14日夜、江戸本所松坂町の吉良上野介義央(よしなか)の邸を襲って、主君浅野内匠頭長矩の仇を報いた、四十七人の元赤穂藩の浪士。赤穂義士。
おおいしよしお
大石良雄
1659-1703
江戸前・中期、赤穂藩浅野家の家老。通称、内蔵助。家老千五百石。赤穂浪士の首領。
1702年12月14日浪士四六人を率いて吉良邸に討ち入り、主君浅野長矩の仇を討った。戒名:忠誠院刃空場浄剣居士
おおいし理玖
大石りく

1669-1736
赤穂藩家老大石良雄の妻。但馬国豊岡藩京極家の家老石束毎公の長女。
1687(貞享4)年播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老・大石良雄と結。婚
1702(元禄15)年4月15日良雄は、盟約に加わることを望んだ長男・良金を除いて、りくと他の子らを再び豊岡に戻し、さらに連座が及ばぬようにと、りくと絶縁。7月5日に石束家で三男・大石大三郎を出産。
1713(正徳3)年9月大三郎は(1500石で)浅野本家に仕官。また、次女るりも広島藩士で浅野家一族の浅野直道と結婚。
りくは、落飾してから香林院と称し、広島藩から隠居料として100石を支給。(広島の)国泰寺に葬られました。
おおいしちから
大石主税
1688-1703
赤穂浪士の一人。名は良金。大石良雄の長男。部屋住。
討ち入りの際、後(裏)門の隊長となった。戒名:刃上樹剣信士
おおいし
  だいざぶろう

大石大三郎
1702-1770
大石良雄と妻・りくの三男、母の実家・但馬国豊岡藩の石束毎公邸にて誕生。
1713(正徳3)年9月広島藩仕官が決まり、豊岡を出て広島へ移った。(父良雄と同じ)1500石の知行と広島城二の丸の屋敷を与えられた。旗奉行次席・番頭・奏者頭など重職を歴任したが、言葉が不自由だったともいわれている。
1768(明和5)年3月18日隠居。男子が2人あったが、養子の大石良尚(1735-1798)に家督を継がせた。
はら もととき
原元辰
1647-1703
赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では足軽頭三百石。惣右衛門(そうえもん)。
1675年赤穂藩主浅野長直に仕官。大石瀬左衛門とともに第二の使者として早駕籠で赤穂へ、通常15日の道程を4日で走破し、3月19日浅野内匠頭切腹の報を赤穂へ知らせた。
長男・重次郎は、当時五歳、討ち入りの罪が及ぶのを心配して谷町長久寺住職に頼んで弟子入りし名を「春好」と改めた後、還俗して「惣八郎」と名乗る。
惣八郎は十五歳になって安芸浅野本家に出仕することになり母や姉たちと広島に移り三百石取りの槍奉行に取り立てられています。
わたなべ ことのり
渡辺 士式
通称・治庵。
?-1657
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての人物。
明の人で、後に日本に渡来・帰化して医業、薬業で浅野家に仕えた。元の名は孟二寛。

治庵の子・渡辺式重。式重には男子が二人あった。
兄・渡辺尹隆が渡辺家を継ぐ。(後日、隆重の功で浅野本家に召抱えられる)
次男の隆重は分家し、祖父が使った「武林」を家名とした。
武林 隆重(たけばやし たかしげ:1672-1703)、通称は唯七。
赤穂藩では、中小姓15両3人扶持で仕えた。赤穂浪士四十七士の一人。



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